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0606『豊饒の海』断片的感想。


はじめに

『豊饒の海』は三島由紀夫の集大成でもあり遺作でもあるけれど、それゆえその内容は個人の思想や、作品的技巧や、物語観が入り混じって、どこをどう見るかによって感想は違うし、様々な感想があって良いとは思う。
そういう意味で物語的に美しい、『春の雪』が映像にされるのは納得するし、最期の台詞も心に響くから、それしか読まない人がいても良いとは思う。
だけどやはり『豊饒の海』は是非四巻全部読んで欲しい。全部読んだ読者として言うなら真面目に読む必要はない、というか力まずツッコミ入れながら読めば読み切れると思う。三島だからといって肩ひじ張ると疲れます。僕は所々なんでやねん、と笑いながら読みました。
それで四巻読み通すと、『春の雪』だけでは得られない不気味さが(少なくとも)僕には浮かび上がり、ここではその感想を、断片的に述べていきたいと思う。

Ⅰ・奇跡と奇跡が起きない怖さ。

『豊饒の海』は輪廻転生がテーマにあるが、では三島はそれをどう捉えているか。そしてどうして輪廻転生をテーマにしたか。分けると、
①三島は輪廻転生(奇跡)を信じている。
②三島は輪廻転生(奇跡)など信じていない。
③三島由紀夫は輪廻転生(奇跡)を(経験)したくない。←僕の考え
となりました。
確かに物語は三つの黒子と、各々の最期の台詞を巡り、輪廻転生であろう飯沼勲・ジン・ジャンを経て、最後四巻『天人五衰』の安永透が転生ではないという感じだが、<安永透が転生ではないというなら、それが偽物だろうが本物だろうが、輪廻転生などもとからなかった>ともとれるし、<本当にジン・ジャンまでは輪廻転生を経ていた>ともとれる。

小説を書くということななんだろうか、ましてや三島なら、と考えると、小説で書くことで【今後それが身に起こらない契約を結ぶ】という妄想に僕は駆られます。ましてやこの小説を残し自害を決めていた三島が一番懼れることは、せっかく美意識に沿った死を選んだのに、生まれ変わってしまうことではないだろうか、と思います。だから全ての可能性を否定するために、①でもあり②でもある話を作るし、輪廻転生者もわざわざ男と女を用意したのでしょう。隙をつくれば生まれ変わってしまうから。そして否定するには細かな描写で隙をなくさなくてはいけないから、このような大作に成らざるをえなかったと思います(例えば無駄に長い唯識論の解説)。

そんな奇跡を懼れる傾向は初期も初期、最初の『海と夕焼』からあった。(『海と夕焼』は地中海が2つに割れる奇蹟を待望しながら至誠が天に通じなかった不思議、さらにその奇蹟の幻影自体よりも、神秘な沈黙の海に潜む「ふしぎな不思議」に思い至った話だが、晩年にもなってまだその本当に目に見えない何か、を考え続けている-初期衝動を保っている-のは好きです)
そして結局、「ふしぎな不思議」に決着をつける方法が『豊饒の海』だったのでしょう。

見えてしまう視覚と使えない聴力

なぜ奇跡を懼れるのかといえば、三島は視覚が強すぎたと思います。三島に対する評によく描写の美しさがありますが、どうして書けるのかといえば、ただそのように視覚が感じ取ってしまうだけだろうと思います。これも初期も初期、『詩を書く少年』で自分がいかに見えてしまっているか書いてあるのでそうだと思っています。だけどその分、内面を視る力はなく、同じ作品で結局詩は書けなかったと告白しています。それゆえ目に見えない奇跡と、奇跡すら起きない「ふしぎな不思議」の懼れへの対処方法をずっと考えていたと思います。普通の人間なら考えないでしょうが、多分三島なら考えているw

本当に見たいとき、人は視覚に頼らないと僕は思っています。暗闇に人を感じるとき、おそらく聴力をまず頼ると思うのですが、三島は正面から見てしまうのでしょう。聴力に頼らないのは『豊饒の海』の夢のシーンで音楽が流れる描写があるけど、実際夢の中では音はないことから頼っていないことが証明できると思います。

Ⅱ・物語として面白さ

Ⅰが作品の意義として、物語的側面から読むとめっちゃ面白い。もう探偵小説であり、ホラー小説であり、思想小説です。よくまぁこんだけ詰め込んだものだ。だけど本当に凄いのは比喩の中に、意義を持ち込んでいるところです。読んだ時になんだこの比喩は、と思った人も多いと思います。例えば、『春の雪』において車中で聡子が本多に語ったシーンとか。

また四巻まで読んでほしいといったのは、最初の登場人物達が後にも出てくるからです。もちろん去っていく人物もいるのですが、その退場の仕方が結構残酷でなんとなく三島の性格が出ているようで嫌になります。もしそうなら少しでもなにかあったらバッサリ切るタイプだと思います。簡単に死んだ、という表現で終わらせます。また後にも出てくる人物達も結構醜悪に描かれています。三島は年をとることが嫌だったんじゃないかと思わせます。

だけど個人的に面白いのは、輪廻転生と同じくらい市民権を得ている「因果応報」が静かに、おそらく登場人物も気づかない感じで発生しているところだと思います。つまりいつの間にか本多が大金を得て、一巻の松枝侯爵の役割になり、松枝侯爵が清顕を綾倉家に預けたように、安永透を引き受ける形です。昔のなにかが、なにかに姿を変えているのは運命なのか小説的物語のためか。しかし残念ながら僕には小説的物語の側面が強いと感じました。運命は信じますが。

ちょっと端折って書くと、探偵小説というのは本多が輪廻転生を巡り(勝手に)意味合いをつけ、証明していくところですね。ホラー小説という意味では、これは人に言われてハッとしましたが、ある意味、安永透は視覚を失うことで20歳目前の死を避けることが出来た、という考えですね。何も見えなくなることで輪廻転生の輪から外れられた、というならそれは呪いです。映画リングかよ!とツッコミたくなります。三巻『暁の寺』でもジン・ジャンが「もう一人お人形さんがいるの」とお姉さんを言いますが、これは稲川淳二の生き人形かよ、とツッコミましたね。こわいわ。それで思想小説というのは二巻『奔馬』ですね。もう三島純度高すぎです。自分で架空の歴史書『神風連史話』をあんなに長く書く人間いないわ。

Ⅲ・太陽と月

三島といえば天皇、『豊饒の海』では天皇を太陽、眩し過ぎて目をあてられない存在としていると思いますが、これも人から意見聞いてハッとしたのですが太陽があれば月もあるはずで、それが女性ではないか、と。確かに聡子も月修寺に出家するし、月修寺は圓照寺がモデルだからわざわざ月を入れなくてもいいし、そういえば本多が自分の奥さんの瞼が腫れているのをみて「お月さんみたい」と言っているシーンがあって、なんでそんな例え出てくんねん、とツッコミましたが、そう言われるとハッとしました。

ただぶっちゃけ女性の表現が、女性の感性を描いているかとそうでもなく、多分女性からはなんも分かってねーわ、と言われると思います。僕も思います。

四・とはいえ最後に残る謎

ある意味三島は見えるもの、または見えないものに対しても描き切っていると思うのですが、個人的にどうしても分からない描写があって①ジン・ジャンが最後に話していた相手(一人では笑えないので)②本多がインドで先に誰かがいた形跡があるとあるが誰なのか、なのですが分かる人いたら教えてください。なんかこの小説、登場していない登場人物がいる感じなんですよね。

おまけ・輪廻転生と記憶的遺伝の対決

『豊饒の海』は輪廻転生をして因果を収めるような話とするなら、遺伝的な記憶を引き継ぎ、それがある時、開花して事を起こす小説として夢野久作の『ドグラ・マグラ』がある。どちらが上かというなら、実際の帝(天皇)崩御の年に事件を発生させるというプログラムを組んだ夢野久作と勝ちとします。ぶっちゃけこの戦いの観客僕一人ですが。

というわけで暫く三島由紀夫はいいです、バイバイ三島。


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