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[感想・考察] 帝都物語(1988)にみる非人間性とは

 Metropolisに続いて授業の予習課題に指定されたもう一つの作品がなんと日本のクラシックSF「帝都物語」でした。Metropolisに比べると人物相関図が複雑かつ専門用語が多くて分かりづらいところはあったものの、AIのある社会の人間性/非人間性という観点で考察して感じたことが以下のポイントです。ネタバレします。
 なお、Metropolisはこちら↓
[感想・考察] Metropolis (1927)から見るAIのある社会|もーん (note.com)

 まず、この映画に出てくるサイボーグ枠は學天則(1928年、西村真琴制作の東洋初のロボット)で、鬼の襲撃によりなかなか進められなかった地下鉄の工事を身代わりになって成功させ、地下の闇のエネルギー脈を断ち切ったいわばヒーローとなっている。自らの意志で鬼に襲われる人間たちを助けたように見える。Metropolisのサイボーグと立場が大きく異なり、世界(帝都)の破壊をもくろむ主体の道具ではなく、その主体である加藤に対抗する力として働き、「人々の夢を叶えた」とされる。

 そんな加藤という悪の存在は、東京の急激な都市化の流れの中で「溺れた」人々の思いなのかもしれないと言及され、加藤もその力を増すために「憎め」という。つまり、世界を破壊する力は、サイボーグや都市化そのものではなく、それに置き去りにされた人間の感情にあるという。そして、東京は、誰の望みなのか分からない想像のつかない方向へコントロールしえないまま変わっていき、人々を集め続ける、という、AIのような、Maria-アンドロイドのような、非人間性の何かとして描かれている。その中で生きる人々がいつ加藤側になってもおかしくない、そんな連続性が、ネット空間の怒りに満ちた応酬が思い出されてリアルに感じる。

 一方で、加藤が破壊のために覚醒しようとする平将門は、怨霊であると同時に東京の守り神の立場である。その子孫兄妹は加藤と闘う側でありながら近親相姦のタブーを犯している。加藤に直接対峙するのは観音力をもつ恵子であるが、慈悲の力で加藤を鎮めたように見えて彼についていった(その後結ばれたとなっている)。単純な善と悪の構図はここにはなく、複雑に絡まっている。非人間的になっていく東京という場所だからこそ、いつでもひっくり返るような危ういバランスになっている、ということなのかもしれない。

 AIのある社会を考えながら鑑賞したところ、その技術・生産の部分に焦点が当たっているのがMetropolisで、一方、帝都物語は、それらの社会への影響が俯瞰的に描かれているように感じた、というところです。


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