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となりのトトロを動物倫理(と30代)の視点で分析してみた

 動物倫理のクラスの課題で、リストアップされた映画の中から好きなものを選んで動物倫理の視点でレビューするというものがあり、ジブリからはなぜか「となりのトトロ」と「千と千尋の神隠し」が選ばれていたので(ここはナウシカともののけ姫では?とクラスのジブリファンと盛り上がる)、舞台化の謎もあったトトロを英語版で数年ぶりに見直したら色々発見があった、という話です。

動物としてのトトロ

 動物倫理的視点で分析するという課題である以上、キャッチコピーのとおり「へんないきもの」である(楠の精霊ではない)ということからトトロ(達)とネコバスを「動物」とみなすと、彼らはかなり表情豊かで、めいやさつきの言葉や表情を理解して行動し、道徳的な感覚も持っている、とみえる。人間以外の動物も倫理的考慮の対象となる道徳的地位をもつ、という考え方の中でも、例えば動物実験における3R(Replacement: 代替手段を使う、Reduce: 使用する数を減らす、Refinement: 苦痛を減らす)は、動物は人間と同様に「苦痛を感じる」ものであるため、ということが根拠になっている。しかし、人間以外の動物の幸福度(福祉)は、苦痛の有無だけで決まるものではなく、彼らも多様な感情や意思、道徳的感覚を持っていることを念頭におくべきで、そうすると動物をマスで扱う3Rのような対応は不適切だとする反論もある。トトロ達の表情や行動はまさに、道徳的地位を人間と区別することを難しくする。

大人には見えない理由

 トトロ達が人間の登場人物たちと同様のタッチでキャラクターとして描かれ、おそらく彼ら自身の意思に従った行動で神出鬼没状態にある一方、風景の中には、その他の野生の生き物に加え、家畜やペットも描かれている。鶏は小屋で、ヤギや犬(終盤でネコバスに吠えてる子)は鎖でつながれている、つまり、彼らは人間の管理下に置かれ、自由を制限された状態にある。人間と人間以外の動物を異なる道徳的地位に置けないのであれば、人間と異なる扱いをすることは倫理的に正当化されなくなってしまうが、実際には動物の種類によって扱いは異なり、それは個人の感覚によっても区別の仕方は異なるが、属する社会の文化や宗教の影響も大きい。子どもはその線引きがないか曖昧であることが、「へんないきもの」がみえる理由なのではないか。実際、めいはトトロにもネコバスにもヤギに対しても同じようにコミュニケーションをとろうとしているようにみえる。(とはいえ比較対象がないのでなんとも、、)

親目線+宗教観

 久しぶりにトトロを観てたら、序盤からめいとさつきのメンタルが心配で仕方がない(笑)。父・草壁タツオのセリフなし表情が、ただ微妙な間とこれまで思っていたはずが、今回分かりみしかない。おとうさんの一挙一動にやけに感情移入してしまうな、、と思ったら同い年だったようです。お母さん入院中でだいぶ違う環境に引っ越してきて、かといって自分も仕事で結構留守にする、しかも長女が超しっかりしてる、って、いくらより良い環境だと自分が選んだところとしても、子ども達にどんなストレスがかかっているか心配しかない。この感覚で観ていると、トトロ達の登場タイミングが姉妹の見守りそのもので。初回はめいの一人遊び中、夜の雨のバス停はさつきがかなり心細くなっているであろう状況で、終盤は村のコミュニティに大分馴染んだ頃とはいえ、さつきのSOSに答えてくれている。
 加えて、米国でキリスト教ベースの文化の空気と西洋哲学をかじっているという状況のせいか、しめ縄で祀ってあるトトロの寝床(仮)楠に、ご神木ドーン!!というインパクトを感じました。父タツオ的には楠の精霊ということになっているように、ご神「木」という感覚、動物(へんないきもの)の話を聞いて楠という植物と結びつける感覚、それが人間を見守っている、という感覚(カンタのおばあちゃんのススワタリの解説も)は、日本にいるときは何も特別に感じなかったものの、神道×仏教ミックスの価値観ベースの慣習の中で生活する日本人の独特のものなのかもしれない。他のアニミズム的な宗教観も似たところがあるのかも。

自然のわからなさを知る

 家畜として人間の管理下に置いている動物がいても、それらを人間の好きに扱っていいという感覚ではもちろんなさそうで、畑の作物を自然の恵みとして手をかけて育てて有難くいただくのと同じような感じの扱いをしているとみえる。植物と動物を同じように扱うことが良いのか、という論点もあるものの、人間と似ている/同じだから道徳的地位があるとみなす、というのとは異なるロジックでの人間以外の動物(生命)を尊重する、共存する、というあり方が認められるのではないか。一つは、ご神木、や、ススワタリのジャッジのような何かが人間を「見守っている」「みている」宗教的な感覚、もう一つは未知の存在を受け入れる感覚、なのかもしれない(多分両者は重なってるところもあるのかな)。子どもはへんないきものとそのままコミュニケーションをとり、大人のタツオはみえないトトロ達やススワタリをいるものとして、「おばけやしきに住むのが夢だった」と語る。おかあさんもおばけやしきみたいな家、と聞いてワクワクするタイプ。この、わからないものが存在する、という大前提が、自然の中で人間が生きていく、共存していく鍵であって、それが科学技術などの人間のやりすぎにブレーキをかけるもの、ある種の謙虚さ(humility)なのだろう。


 とはいえ、その謙虚さというのがあまりにもふわっとしていて、異文化、異なる宗教観、多言語、の間でどの程度共有されうるのか、科学技術の生命倫理的な問題に導入して具体的に議論するにはどうすればいいのか、というのは悩ましいな、などと思うわけです。

 ちなみに一番英語版でびっくりしたのは、
カンタ「お前んち、おっばけやーしき」= "Your house is haunted!!"
と突然のハロウィン感というかホラーというか。haunted house=お化け屋敷、とはいえ、haunted=呪われてる、の訳になるので、何がいるか分からないぞわぞわというより、ガチ怨霊がいる感じがする。


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