見出し画像

赤田圭亮 著『教員のミカタ』の優れた書評を紹介します。

 先日紹介した赤田圭亮 著『教員のミカタ』の書評が、著者の赤田さんが所属しておられる横浜学校労働者組合の機関紙 「横校労 」2022年10月011月号 No.537に掲載されていたので掲載します。

書評 『教員のミカタ』(赤田圭亮 著)の見方と読み方

小学校非常勤講師(会計年度任用職員) フリースクール「社団法人アーレの樹」理事
岡崎 勝

 子どもに一人一台タブレットが与えられ、すべての子どもたちを個別最適に管理し統治する準備は整ったかに見える。子ども一人一人の身体と成績・指導&素行記録、そして性格・好み・生活様態までがデジタル化されつつある。子どもをメタバースに取り込んでおけば、「主体的・対話的・協働的な学び」による支配管理は完了ということだろうか。
 新型コロナ感染症対策という災害恐怖と危機管理を利用して学校の統治は加速化された。主体的・対話的に自ら考え自ら学んだ結果が、「同調圧カマスク」なのだ。日本社会は学校化されてしまったのか。その学校はデジタル化をテコとした教育改革で、ますます息苦しくなり、隙間と寛容は消失させられた。
 『効率化』至上主義の中で、私たち学校労働者は子どもを管理する端末デバイスに成り下がった。私たちがアバターになる日も近い。
 本書はこうしたオール管理の学校制度の中で、いかにして「自分は生存している」と実感できるかを模索し、公立学校のバトルフィールドの中で、したたかに人間らしい息を吐くためにはどうしたらいいかというヒント満載の書である。
 
 第一章は「学校で生き抜くために」どうやって息を抜くかという、方法論も示されている。第一に学校をしっかり見据えること。何が問題なのか?私たちが普通だと思っていることは、全然フツーじゃないということが分かるだけで随分肩の力が抜ける。もちろん、子どもを見るときの微妙な立ち位置は、雑音を消しての熟読が必要になる。
 第二章は「現場をないがしろにする教育改革」である。長時間労働に慣れてはいけないのだ。教育改革が労働条件改悪と常にセットになっていることを、具体的に論じている。「未来への投資」だとか「成熟する社会」などという言葉、文科語法(文部科学省の教育用語と文法)の空洞化についても明示されている。
 第三章は「学校的〈事件〉の本質」として、スクールセクハラ、いじめハ不登校についての「見方」が、圧倒的な現場認識で書かれている。正直、教員はみんな読んでおいた方
がいいと思う。つまり、私たちの知っている学校事件は表層どころではない、氷山でもない、塵小さじ一杯くらいで、〈事件〉の本質は社会と人間そのものの在り方にある。
 第四章は今の「懲りない〈改革〉」としてGIGAスクール構想などの「学校荒らし」について書かれている。

昔は児童生徒が学校を荒らしたが、最近は文部科学省や教育委員会が学校を荒らす。


 本書を読んでいて、「子どもを甘く見るな!」という思いがふつふつとわいてくる。子どもは可愛くて、幼くて、純真だという「善なる者」という一面的な見方は「安易すぎる」という意味だ。子どもだって、世間で暮らし、成長する。だから、したたかで賢く、駆け引きの上手な子どもがいて当たり前だ。教員が、単純な善悪判断に頼って子どもや親に向き合えば、自分で墓穴を掘ることだってある。
 「一生懸命に話せば分かってくれるはずだ」というのは思い上がりであり、「痛い信念」である。「正しいことを言えば理解するはずだ」というのはもっと「痛い」。 フェミニズム論でも反差別論でも、人権論でも、現実では、かなり精緻に現場の力学を頭に入れながら妥当性を積み重ねていかなくてはならない。だが、時として「私は正しいのだ。だから糾弾してマウントを取る!」が目的になってしまっているようなケースがありはしないか。SNSではよく見られる。教員が子どもを「指導する」というときにも、これに似たケースがあるのではないか。「どうだ、正しいことを言ってやった。なのに、なぜ分からないのだ。なぜ理解できないのだ」という「言ってやった」と溜飲を下げるだけの「指導」が。自分の指示に従わない子どもを、「発達障害」にし、動き回る子は「ADHD」と命名する。命名して定義をすることは権力者の行為である。しかし、その命名も定義も軽率で、ご都合主義で、ずさんなことが多い。
 本書は、教育の持っている「善意の権力」の底の浅さを切開してくれている。その意味でも、教員の「味方」であり「見方」を教えてくれる良書である。最後に赤田さんのことに触れておきたい。とにかく、40年以上の付き合いである。横校労に学んで、愛知で作った「アスク」という自立独立組合で私も活動してきた。退職後しばらく遠ざかっていたが、またそこで活動し始めた。つまり、非常勤講師(会計年度任用職員)として。ずっと赤田さんの書かれた多くのものは読ませてもらってきたし、ときどき添付ファイルでいただく「記録や実践」も内容豊かでおもしろいし、刺激を受ける。今後も、たくさん読ませて欲しいと思っている。
 最後にこれだけは言っておく、赤田さんも私も、極めて真面目な常識人であると。ここだけは決して譲れない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?