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「洗礼」についての雑感

 「洗礼などを受けなくても、キリスト教の事は理解できる」とか「洗礼を受けなくても、信仰生活はできる」とか、「洗礼不要論」のような発言を聞く時が、時たまある。
 また、洗礼を受けたからといって、特に人格が高潔になるとは限らないし、むしろクリスチャン同士が不毛な論争を繰り広げたり、挙句の果てには誹謗中傷合戦、場合によっては、歴史上あるように、血で血を洗うような争いに発展する場合もあり得る。
 洗礼など受けたからといって何の良いことがあるのだろうか。そういう意見があってもおかしくはないと思う。

 しかし、それでも自分は洗礼というものに意義がないとまでは思わない。
 洗礼を受けるというのは神を信じたいと思う、または神やイエスと共に歩んでみたいと思う、それを人生の一大事だと捉えて、これから生きていくのだと言う決心をするということだ(幼児洗礼については、また別の論議もあろうが、ここでは一旦問題にしないことにする)。

 もちろん、その覚悟は挫折することもあるだろうし、途中で放り出してしまうこともあり得るだろう。洗礼を受けても、「もうクリスチャンは卒業した」という心境に至ることもあるだろう。しかし、そうではあっても、人生のうちで1度はそのような覚悟をしたことがあるのだという点で、自分はその人を信頼したいと思う。
 そのような決心をした人、あるいは、そのような決心について悩んでいる人に、自分はシンパシーのようなものを覚える。

 逆に、自分がクリスチャンになることについて、悩みもしないで、わかったようにキリスト教について語る人を見聞きすると、非常に強い違和感を覚える。あるいは、信仰に関連することを、うまい具合に人間同士の倫理の話にすり替えて、何かの教訓みたく解釈する向きも、「何かが違う」と思ってしまう。「所詮、あんたにとっては、自分事ではないだろう」という思いが湧き上がってくるのである。

 キリスト教が主流派である国はともかく、日本でキリスト者になると言う事は、マイノリティーであることを引き受けると言うことだ。それを引き受ける、覚悟のない人に、ときには、こちらを差し置いてでも、キリスト教やキリスト教教育について、声高に語る人を、自分はまるまる信用する気にはなれない。

 宗教を客観的に語ろうすることは大事だ。それがないと、特定の宗教的信念に肩入れしすぎて、公平なものの見方を失ってしまうし、独善的な人間を生み出してしまう危険性がある。

 しかし、宗教心や信仰心というものは、基本的に主観的なものだし、主観が重要ではないとは決して言えない。むしろ自分が救われたとか、心の支えを得たとか、孤独に陥りがちな人生のよすがとなったなど、主観的な問題こそが宗教心、信仰心の大切な要素だろう。「わたし(たち)がここにいる」という主観なしには宗教は成り立たないのではないか。

 もちろん主観だから、他者と共有するのには限界がある。主観は人それぞれ、集団それぞれで違って当たり前なのだから、自分の主観を絶対視すると、争いが起きる。だから、「これは自分にしかわからない主観なのだ」とわきまえておくことは絶対に必要だ。しかし、その上で、道筋は違えど、同じキリストの道を求めて歩む物を見つけると、心強く思う。
 もちろん、どっちの道筋が正しいかなどと論議をふっかけてくるクリスチャンとお付き合いするのは真っ平ごめんだが、お互いの違いを認め合いながら、同じ神を求めてそれぞれの道を進む人には、特別な親近感を持つのである。

 「通過儀礼」としても、洗礼は大きな意義を持つ。いつでも関わりを断つことができる立場と、後戻りできない立場になるのとでは全く違う。人生のある段階から、次の段階へと移り変わることは、その人のアイデンティティーの形成にとって非常に大事なことなのだ。
 成人式然り、結婚式然り、あるいはタトゥーを彫ることにも通じるかもしれない。それは自分の人生に消えない刻印を刻み込むことなのだ。
 これはその道に進んだ者にしかわからないことである。

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