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闇の世に美しい星を見つけよう

2022年12月25日(日)徳島北教会 クリスマス礼拝 説き明かし
ルカによる福音書2章8−14節(新約聖書:新共同訳 p.103、聖書協会共同訳 p.102)
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最後に動画へのリンクもあります。「読むより聴くほうがいい」という方は、そちらもどうぞ。

▼ルカによる福音書2章8〜14節

 さて、その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の番をしていた。すると、主の天使が現れ、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。私は、すべての民に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、産着にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つける。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、天の大軍が現れ、この天使と共に神を賛美して言った。
 「いと高き所には栄光、神にあれ
  地には平和、御心に適う人にあれ。」

▼闇の世

 皆さん、クリスマスおめでとうございます。今年もこうして教会でクリスマスをお祝いすることができますことを喜んでいます。
 しかし同時に、クリスマスだからといって、とてもお祝いする気分にはなれない人のことも覚えたいと思います。
 たとえば路上で生活している人。住むところは辛うじてあったとしても、とてもクリスマス・プレゼントなど子どもにあげることもできない、余裕の無い親子がいること。病気と戦っている人のこと。今も戦争のさなかにあって、命を奪われる人たちのこと。そのような国では、大統領が「自分の国の子どもたちは、サンタさんに兵器や防空システムたや勝利を欲しがっているのだ」と発言したりもす、そんな境遇にある子どもたちのことなど。いろんな境遇にある人がいることを思うと、私たちはそういう人たちのことを忘れないで、クリスマスを迎えなければならないのではないかと思うわけです。
 今日の説き明かしには「闇の世に美しい星を見つけよう」という題をつけました。お気づきの方もいらっしゃると思いますが、「闇の夜」というのは、「闇の『よる』」と書かずに、わざと「よ」というのは「世の中」の「世」という字を使わせていただいています。つまり「闇の世の中」という意味です。
 先程も申し上げたように、賑やかで華やかなクリスマスとは縁の無い、逆に「クリスマスなんて無くなってしまえ」と思っている人もいます。そういう経済格差、生活困窮者がどんどん増えている中、為政者は軍事費を大幅に増額し、戦争の準備を着々と進めている。そのために増税もすると公言している。そういうことを国会での話し合いも無いままに勝手に閣議決定で決めてしまう独裁体制。まだまだコロナで死んでいる人もいる。統一協会の問題はうやむや。そして、最高責任者はすき焼きと日本酒をやりながら「今年も皆さんのおかげで年が越せそうだ」。誰のおかげですか?
 ……全く闇の世の中です。私たちは闇の中を歩んでおります。

▼羊飼い

 今日の聖書の箇所に登場した、2000年前のユダヤの羊飼い。当時の世の中では、この人達も闇の中を生きていました。それも、闇の中の闇。
 この時代も貧富の格差がひどくて、羊飼いというのは一番底辺の位置にいる人達でした。「野宿をしながら、夜通し羊の番をしていた」(ルカ2.8)と書いてありますけれども、野宿ということは家が無いということであり、しかも夜通し番をしている。
 つまり今風に言いますと、深夜から朝まで凍えそうに寒い中、突っ立ったり座ったりして仕事をしているガードマンみたいな人。交代で昼間は地べたに寝ていたのかもしれないけれど、夜にはまた起きて、朝まで仕事です。しかも、帰る家が無いわけですから最底辺の労働者です。
 羊というのは、貧乏な人からお金持ちまで、ユダヤ人の生活には絶対に欠かせない動物です。毛を刈って服を作りますし、神殿でも生贄にも捧げますし、もちろん食べるためにも買われていきます。
 ですから、羊というのは生活必需品で、そういう生活必需品を生産している仕事なので、非常に大事な仕事をしているはずなんですけれども、こういう動物を扱う仕事の人達というのは、日本でも家畜の革をはぐ仕事だといって差別されてきた被差別部落の現状と似ているわけです。当然、稼ぎも低い。
 ですから、経済的にも最底辺、身分的にも最底辺。しかも労働はキツい。世間の闇の中でも最も深い闇の中に生きていた。しかも電気もない文字通りの真っ暗闇の中で、目だけをこらしてじっと生きていたんでしょうね。

▼星空

 私、こういう人たちがどういう気持ちで毎日を暮らしていたのかなぁと考えるはするのですが、とてもその気持ちを一緒に味わうなんてことはできていません。大阪の釜ヶ崎で時々炊き出しに参加させてもらうことが年に何回かある程度で、この寒い中で野宿する人の気持ちを想像しても、実際のところわかっていないです。
 ただ、クリスマスの時期に夜回りに参加して、路上生活している人の所に行って声をかけたり、弁当を配って回ったり、公園でベニヤ板やブルーシートの家で暮らしている人のところに行って話をしてみると、みんな優しいおじさんたちです。やけになって、当たってくる人なんて1人もいません。
 だいたい釜ヶ崎に行って出会うのは、口は悪いかもしれないけれども、気持ちは優しい人達ばかりです。そして知性的です。貧乏になったのは仕事ができなかったからじゃないかとか、学校の勉強についていけなくなったからじゃないか、だからちょっと頭が悪いんじゃないか、という偏見があるように感じますが、全然そんなことはないです。世の中のことをよくわかっていて、鋭い社会批判をする人に何人も出会いました。
 そこで、私は考えるわけです。
 2000年前の羊飼いの人たちも、貧しいから精神的にも貧困というわけではないはずだと。貧困を美化するつもりはないのですけれども。
 この闇の世の中で、羊飼いの人たちは、闇の中にも何か美しいものを見つけていたんじゃないか。その見つけた美しいもののひとつが、星空だったのかもしれないなと想像してみたわけです。
 人間の社会はろくでもないことばっかり、人間はろくでもない奴ばかり。そんな中で唯一美しいと思われたのは、人間ではなく、満点の星空だったのではないかと。
 今と違って、電気もありませんし大気汚染もありませんから、そりゃあきれいな星空だっただろうなと思います。「星あかり」という言葉もありますけれども、私も小さい頃は田舎の方に行くと、月が出ていなくても、星空の光だけでなんとなく薄っすらと周りの様子が見えたりしたもんです。
 そういう星あかりのもとで、羊飼いたちはじーっと朝がくるのを待っていたんではないか。ろくでもない闇の世の中で、唯一美しいのは星空なんだということを知っていたのではないだろうか、と想像してみたりします。

▼栄光

 そうやって、星空を見上げている内に、その星の1つが突然どんどん大きくなって明るくなってきたと思ったら、それが天使の姿になって、羊飼いのところに降りてきた、というのが今日の聖書のお話です。羊飼いたちは「恐れに恐れた」という元の原典には書かれてあります。
 でも天使は、「恐れるな」と言います。「恐れるな」、「恐れることはない」というのは、マリアが「あなたからイエスという子が生まれるよ」ということを天使から告げられた時に、天使ガブリエルが言ったのと同じ言葉です。「怖がらなくてもいいよ」と。
 そしてこの天使は、救い主がお生まれになる。その子は主メシアである。あなたがたが飼い葉桶に寝ている赤ちゃんを見つけるだろう。それがあなたがたへのしるしであると言います。
 するとすぐに、今度は星空から更にたくさんの天使の大軍が降りてきて、この大聖歌隊が歌うんですね。「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ」。
 これ、有名な「あらののはてに」という讃美歌で、この歌の後半の繰り返しのところで歌う歌詞がそれなんですね。「グロォォォォォリア。インエクセルシス、デーオー」と歌いますね。あれが「いと高きところには栄光、神にあれ」のラテン語です。「Glória in excélsis Deo.」

▼善意

 で、後半の方はあまり歌われることが少ないんですけれども、「地には平和、御心に適う人にあれ」という。これはラテン語で「et in terra pax homínibus bonæ voluntátis.」と言います。
 ここの部分の「homínibus bonæ voluntátis」というのを私たちの持っているこの聖書だと「御心に適う人」と訳しています。これに対して、カトリックでは去年までは「善意の人」と訳していたんですね。でも、今年からは「みこころにかなう人」に変えられて、プロテスタントと同じなりました。
 「神の御心に適う人」……というと、どんな人が神の御心に適う人になるんだろう? という疑問が湧きます。何か信仰が特に深い人とか、他の人にはできないような善いことをした人でしょうか。「神の御心に適う人」というと、何か立派な資格があるようなニュアンスがある日本語に聞こえます。
 けれども、実際のギリシア語では、単純に「喜ばれる人びとに」としか書いてありません。もちろん、誰に喜ばれるかと言えば、神さまに喜ばれるということになるんでしょうけど、単に「神に喜ばれる人たち」、つまりどんな人間でも神さまに喜ばれているのですから、「全ての人たち」という意味になるんだという解釈を読んだことがあります。
 誰だって神さまに喜ばれている存在なんだから、ここで「喜ばれる人々」というのは、全ての人のことだろうと。
 実際、このちょっと前の10節にもそう書いてあります。
 「天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる』」。「民全体」と言っています。別の翻訳(聖書協会共同訳)だと、「私は、すべての民に与えられる大きな喜びを告げる」と書いてあります。こちらは「すべての民」です。
 「すべての民」と言っているのですから、14節の言葉も「神に喜ばれる人たち」というのは「すべての人間たち」という意味なんですね。すべての人間は神から愛されているわけですから。
 「地上の全ての人間に平和があるように」と天使たちは歌います。

▼平和

 「人間に平和があるように」……では、平和とは何でしょうか。
 ある学者さん、ノルウェーのオスロ国際平和研究所のヨハン・ガルトゥングという方は、「平和というのは単に戦争が無い状態を指すのではない」と言っておられるそうです。
 というのは、平和には2種類あると。1つは「見える平和」。それは見える形で戦争がない状態。もう1つは「見えない平和」。これは暴力が無いこと。特にこの社会の構造的暴力がない状態のことだそうです。
 構造的暴力というには、この社会の構造の中に潜んでいる暴力性のことで、例えば貧困のある社会であるとか、差別がある社会であるとか、誰かが抑圧されたり搾取されたりしている状況とか、職場や学校や教会でセクシュアル・ハラスメントがあるとか、恋人や夫婦の間でモラル・ハラスメントがあるとか、他にもいろいろ。そういったことが社会の中に構造として組み込まれてしまっている暴力。これが構造的暴力です。
 今日の聖書のお話に出てくる羊飼いというのは、まさにこの構造的な暴力の被害者だったわけですね。
 しかし、救い主が生まれたという知らせは、この構造的暴力の被害者のところに真っ先に届きました。そして、「すべての人間に平和があるように」というお告げがくだりました。
 この平和というのは「見えない平和」すなわち、羊飼いたちがさらされていた構造的暴力が無くなるという意味の平和です。天使たちは、「抑圧されて、貧しくて、差別を受けているあなたがたにこそ、最初にこのメッセージを届けよう」ということで羊飼いのところにやってきたわけです。
 ……では、実際には羊飼いは羊飼いという立場から解放されたんでしょうか? 羊飼いをやめることができたんでしょうか? この貧困と抑圧と差別の闇から抜け出すことができたんでしょうか?

▼誇り

 羊飼いたちは赤ん坊のイエスを尋ねてベツレヘムの町に生き、飼い葉桶に寝かされているイエスに出会いました。そして、神さまを崇め、賛美しながら帰って行ったと書かれています(ルカ2.20)。
 「帰って行った」ということは、また羊のいる草原に帰って行ったのでしょうね。そして、また羊飼いの仕事に戻ったんだろうと思います。同じ暮らしに戻りました。一体、羊飼いたちにとって、何が救いであり、何が闇の中に輝く希望の光になったのでしょうか。
 これも推測ではありますが、私はこの羊飼いたちは改めて人間としての誇りと生きる力、生活者としての誇りと生きる力を得たのではないかと思います。
 底辺に生きる暮らしは変わりません。しかし、救い主が自分たちと同じような底辺に生きる者として、普通人間が出産されるような場所ではないところ、ラクダやロバが繋がれていて、動物たちの匂いのするところで生み落とされているのを目の当たりにしました。
 その匂いは、動物を飼って暮らしていた羊飼いらと同じ匂いだったでしょう。救い主自身がそんな構造的暴力を受ける側の人としてこの世にやってきたということに、羊飼いたちは自分たちこそが神に愛されているのだ、自分たちの側にこそ神がいるのだ、というメッセージを受け取って、大いに励まされたのではないか。自分たちと同じ苦しみ、しんどさを神の子が一緒に担ってくれるんだという思いに、生きる力を与えられたのではないか。
 それが、闇の中に生きる光となったのではないかと、私は思いたいのですが、いかがでしょうか。

▼光

 「闇の中に光を見出す」というテーマは、聖書の中にいくつか見られます。例えば旧約聖書のイザヤ書9章1節にはこんな言葉があります。
 「闇の中を歩んでいた民は大いなる光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝いた」。
 新約聖書のマタイによる福音書4章16節にも、今のイザヤ書の言葉ととてもよく似た言葉が語られています。
 「闇の中に住む民は、大いなる光を見た。死の地、死の陰に住む人々に、光が昇った」。
 このイザヤ書の「死の陰の地」、マタイ福音書の「死の地」「死の陰」という言葉は、今度は多くの人に好かれる詩編23編の言葉を連想させます。この教会の皆さんも好きな人が多いですよね、詩篇23編。
 詩編23編の4節。
 「たとえ死の陰の谷を歩むとも、私は災いを恐れない」。
 羊飼いは闇の中を歩む民です。死の陰の谷を歩む者です。しかし、そんな世界を歩むときも、私は災いを恐れないと言うのです。
 恐れや不安を取り除き、挫折や落胆から再び立ち上がらせる力。これは私たちにも働く力です。
 闇の中の光というのは、私たちの心の内に、見える力ではなく、見えない力として湧き上がってきて、私たち自身を力強く生かす原動力、心の中の炎となるものなのではないでしょうか。
 同じ人生を生きるにも、この見えない力があるのと無いのとでは、大きく違います。同じ闇を歩む人生でも、イエスが一緒に闇の中を歩いてくださるということは、私たちが闇夜にただ放り出されただけの存在ではないということです。
 私たちはこの闇の世にただ放り出されただけの存在ではありません。
 この新しい年の始まりであるクリスマスに、イエスによる見えない力を得て、闇の世の中に負けずに、すべての人に与えられるという「見えない平和」を信じて、これからも生きてゆきませんか?
 祈ります。

▼祈り

 神さま。
 今年もクリスマスを迎えることができましたことを感謝します。
 2022年も終わりを迎え、私たちはまもなく新しい歳を迎えようとしています。この世の中は決して明るくはありません。何の支えもなくこの世の闇を生きてゆくことは、とても困難です。どうか、この闇の世を強く生きてゆく力を私たちに与えてください。
 飢えている人。凍えている人。病の中にある人。病の中にある人を癒す人、支える人。小さな子どもを守る親。年老いた親を世話する子ども。誕生を迎えて喜んでいる人。身近な人を亡くして悲しみにくれている人。色々な人間がそれぞれの場所で、あなたによって生きる力を得ることができますように。
 あなたの大きな支えと恵みがどの人にも与えられますように。
 クリスマスの喜びがどこにもあふれるものでありますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。
 アーメン。
 


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