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わたしもただの人間です。

クリスチャンで牧師などをやっていて精神科やカウンセリングにお世話になっていたりすると、「あんた牧師さんやろがいね」と揶揄われたりする。聞けばお坊さんでも同じようなことを言われることがあるそうだ。「あんた坊主やろ。人に教えを説く立場やろうに」と。

しかし、そもそも自分が宗教の道に入ったのも自分の在り方、生き方に疑問を抱き、求道する思いからである。出発点には大きな悩みがある。そして、悩みながら学びながらいつの間にかここまで来てしまったわけで、決して自分の求道が完了したとか完成したわけではないし、悩みが尽きたわけではない。そんな未完成な人間のまま、いつの間にか人を教えたり、導いたりすることを期待されるような立場になってしまっているのである。

自分が未完成なのに、他にも未完成な人のお世話をしていて、荷が重くないという人はいないだろう。まさに福音書でイエスが言っているが如く、「盲人が盲人の手引きをできようか」といった悲喜劇である。イエス様にまで揶揄われているようだ。

おまけに宗教団体のような組織は、組織の伝統や教義を守るために、逆に個人の自由な求道を妨げるような面もある。かくして悩みは尽きないどころか、ますます増し加わる。そして、ある者は精神科や心療内科、カウンセラーなどの扉を叩くのである。扉を叩く人はまだ良い方で、むしろ自分は聖職者なのにそんな所にかかってはならないと思い込んで、悶々と苦しみ続けている人も少なくはないだろう。

ただ、思えば宗教の道などに完成形があるのかとも思う。特に体制的な宗教組織の保持ではなく、霊的な旅を志す者にとっては、求道は生きている限り続くものではないかと思う。そこそこ旅をしてみて終わってしまうような道ならば、つまらないではないか。歩いても歩いても新しい景色があるからこそ、歩きがいがある。

だから、私は自分が未完成の求道者であることを隠さずに生きていこうと思う。そして、この求道の旅に「よければ同行しませんか」と誘う者でありたい。使徒言行録でペトロも言っている。「私もただの人間です」と。

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