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アート

アートとは何だろうか?

三連休は気分転換も兼ねて関東に出かけた。西洋美術館で『ピカソとその時代 ベルリン国立ベルクグリューン美術館展』の展覧会が開幕されたことを水曜日に知ったので、衝動的にここを最大の目的にして、急遽知人に声を掛けたりして、大枠だけスケジューリングをして出かけた。

土曜日は始発で移動。新幹線の道中は『目の見えない白鳥さんとアートを見に行く』を読み進めていた。絵や作品を、周囲の方々との会話や、展示場の雰囲気を知覚して、それを味わう方法があるというのは新しい発見だった。日常生活を、目から得られる視覚情報ばかりに頼っていることが改めて感じられた。自身の鑑賞が言語化できるレベルでの鑑賞になっていないことも発見したが、一方で必ずしも独りで見る時には不要であるとも改めて思った。

ホテルに荷物を置いて知人と合流。昼からはしごして酒を飲んでいたのだが、ほろ酔い気分で降りた渋谷駅。街中に出ようとして歩いていた時に、岡本太郎の『明日の神話』と初遭遇した。夏に大阪で開催された岡本太郎展に行っていたので、すぐに認識はできたのだが、おそらくその経験が無かったら素通りした気がする。酔った気分とは対照的に描かれた原爆の恐怖や悲劇、そして無関心にその前を足早に通りすぎる人々。世の中の様々な矛盾や難しさを感じた一瞬ではあった。ただ、その10分後には再び酒を飲んでいる自分がいることも事実で、今思い返すと少し罪悪感を感じてしまう。

日曜日午前は上野駅の公園口改札から西洋美術館に向かった。改札内に描かれたNIJI$UKEのウォールアートの動物達は生命感に満ち溢れており、しばし足を止めて魅入っていた。ここに描かれた動物達は、檻の中にいる実際の動物よりも生きているのかもしれない。そう感じた数分間だった。ここでも立ち止まって絵を見ている人は殆どおらず、現代の忙しさを垣間見た気がする。

目的のピカソについてはキュビズムとそれ以外の作品を同時に鑑賞できたことが大きかった。一人の画家が、世界を様々な角度で切り取りつつも、表現の仕方はその時々で異なる。そこに寄与したのは、精神状態なのか、論理なのか、無意識なのか。女性遍歴など、素行の方では悪名高いこの天才画家が、どのように世界を観て具現化したのか想像することは興味深い時間だった。他にもクレー、ジャコメッティ、マティスの作品も数多くあり、興味深い空間だった。

午後は特に予定はなかったので、上野公園の掲示で展覧会を確認。上野の森美術館の長坂真護展が面白そうだったので鑑賞することにした。正直なところ、鑑賞前はただの時間潰しくらいの気持ちだったのだが、結果的にこの旅で一番衝撃を受けたのがこの展覧会だった。これでもかというくらいに訴えかけてくる不都合な現実、先進国のエゴ、格差、そしてその格差の中で生きようとする人々の生命力。それらを形にした作品の中には、作者の怒り、信念、情熱などが凝縮されているようだった。作者は自身の芸術スキルを資本主義としっかり結び付け、サステナブルな世の中を創るという理想を掲げている。明確な意志が込められたアートには力強さが宿るということを理解するとともに、アートと世界の関わり方にも様々な形があることも知ることができた。

結局、冒頭の質問にはまだ答えられそうにない。ただ、アートに触れることで、「今この瞬間を濃密に感じられる」ようになる気がする。だから、それは別に展覧会の展示では無くてもいいし、自然の美しさや、人の生き様も一緒なのだろう。そのように捉えられる時間が増えると、人生の密度も濃くなるような気がする。そんなことを感じられた連休だった。

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