「子泣き爺に魅せられて」(第三回「阿波しらさぎ文学賞」最終選考作品)
「正味のところ、だいぶ参っておりましてね」
浅野さんは、徳島県連事務局の重鎮だ。
「先代は一升瓶ぶらさげて、コンパニオンのひとりもあてがってさしあげれば、十分だったんでございますが、当代は難しいお方で」
「ふーむ」
唸り声をあげる若先生はまだ四十歳。元々は衆議院議員を九期務めたお父上の後継となる予定だったが、議員定数削減による区割変更で事実上、地盤を失った。一つの小選挙区をふたりの議員が分け合い、交互に選挙を戦うコスタリカ方式で何度か出馬したが、変更後の選挙区は大先生には不利な区割りでよくて辛勝、たいていは比例復活。党が定める比例単独候補としての定年を迎えたおり、後継は自動的に選挙区を分け合っていた現職議員に決まり、若先生は行き場を失った。
「でもね、先生なら、いいかもわかりません。いかにもフレッシュ、いかにもスマート!」
浅野さんの賞賛に「いやあ」と微笑む若先生。その笑顔は若々しいというよりも幼くて、二十代だといっても通りそうな風情だ。
若先生は今回、高知県議会議員を任期途中で辞し、「徳島県・高知県選挙区」の候補者として参議院議員選挙に立つ。かつて全県に置かれていた参議院の選挙区だが、一票の格差是正の取り組みとして人口の少ない県の「合区」が進められた。「徳島県・高知県選挙区」は、「鳥取県・島根県選挙区」とともに全国でただ二つの「合区」である。一度の選挙に割振られている議席数はひとつ。二つの県で当選できる候補者はただ一人である。
つまり、この四つの県だけは、一度の選挙で県代表の議員が誕生しない可能性があるのだ。当然、四県連に属する議員たちには当該制度への不満がくすぶる。
ただ、こと若先生にとっては、この「合区」が幸いしたといっていい。若く爽やかなイケメン候補者は、地縁だけで乗り切ることが難しい合区の選挙にうってつけだと白羽の矢が立った。国政挑戦を半ば諦めていた若先生にとっては、またとないチャンスだった。
「先生もご存じのとおり、今回は徳島の年回りでした。高知県連の先生をお招きすることには忸怩たる思いもあります」
「その割には浅野さん、さっぱりしているようですが」
若先生のこういうときの「衒いのなさ」には定評がある。本当に何もしらない少年のように言葉を紡げる。無論、若先生は何もしらない少年ではない。
「いやあ、徳島の方でもね、探したんですが……なんにせ、わたしどものところは窮屈でしてね。御前の許可が下りなければ候補者にはなれんもんですから」
「御前、ですか。これは大仰な」
「しっ」若先生の唇に人差し指を持って行きながら浅野さんが警告する。「お気をつけください。徳島全土が御前の庭です」
思わず、ワタルは口を挟む。
「大歩危小歩危のあたりではないのですか、彼らの生息地は?」
助手席に座っているワタルには、後部座席の二人の動きがしっかりと見えた訳ではない。ただ、若先生の柔らかな唇に浅野さんの乾燥した指先が触れたのではないかと思うといらついた。
「お若いの……」
浅野さんは深くため息をつく。
「彼らは、いると思えばいる。いないと思えばどこにもいない、そういう存在だ。そして、この徳島の地では、彼らは確固としている者として扱われてきた。数百年も、ひょっとしたら数千年も」
「ふうん」若先生は、窓の外を観ている。こういう素振りの時の方が、若先生の神経は集中している。「失礼、お続けください」
若先生の「衒いのない笑顔」を向けられている浅野さんが、ワタルの心をいらつかせる。
「おわかりかな? 人の世の政に携わる人間を選ぶにあたって、御前の託宣を必要とする。その対象として崇めている。我々人間こそが、彼らが存在している証拠なのです。我らがいると認める限り、彼らの存在は確固として揺るがない。この営みをやめればいい? 確かに。そうすれば彼らは存在しないことになる。簡単だ。我々も一度はそう考えた。我々の好きなように候補者を選び、選挙に臨んだ。結果、何が起こったか? 政権交代です」
「そのときも、徳島県は勝ったのではないですか? 我々、高知と違って」
若先生の記憶は正しい。高知県は伝統的に内閣支持率が低く出る傾向にある。つまりそれは、風に左右される土地柄であるということだ。
「左様。しかし、誰が御前を徳島だけの存在と定めたのでしょう。たとえば、高知の妖怪に山爺というのがいますね。山の奥で不気味な音を立てる妖怪。その音を聞いた者は病気になり、姿を見た者は死ぬ。この特徴は概ね御前にも当てはまる。そしてこんな伝承は、実はどこにでもあるのです。関東にも東北にも海外にさえ存在する。それがすべて御前であるとどうして疑わずにいられましょう」
到着です、と運転手が告げる。ワタルは後部座席のドアを開ける。降車するとき、ワタルの背広の袖に若先生の手の甲が触れる。咎められたという羞恥と、咎めてくれたという喜びがワタルの背中を駆けあがる。
「ふうん、県連本部よりも県庁に近いんですねえ」
ありふれた古い雑居ビルを見上げながら若先生が呟く。
「そうです。彼らはいつも権力の中枢にいる。徳島の盟主はいつの時代も、御前──子泣き爺さまなのです」
出迎えたのは、爺ではなかった。
細身で長身の青年は、英国紳士のように三つ揃えを着こなしていた。縁の無い眼鏡と銀髪が知的さを醸し出していた。水木しげる翁が描く愛嬌あふれる老人の姿とは似ても似つかぬ美丈夫だったが、中分けにした調髪がハート型に盛り上がっているのが、あの独特の頭の形を思い出させた。
「良い方がみつかりましたか、浅野さん?」
小さなデスクと四人掛けのソファだけの部屋だった。当代子泣き爺は、若先生にソファを勧めて、自分で淹れた珈琲を供した。隣に浅野さんが座り、ワタルは若先生の斜め後ろに立った。子泣き爺が用意してくれた珈琲を、掌をかざして断る。子泣き爺は一瞬、淋しそうに口元を歪めた。
「私が問題にしたいのはモラルです。この十年ほどで、あなたがたはあまりにもモラルをないがしろにし過ぎた。政治には、時に倫理を踏み越えた決断をせねばならない局面がある。それは確かでしょう。しかしあなたがたは、それを万事にしてしまった」
「お恥ずかしい限りです」
浅野さんが汗をぬぐう。若先生は、もっともだ、と言いたげに頷く。ワタルはじっと子泣き爺を観ている。子泣き爺はひとつ、咳払いをする。
「先代は立派な御仁でした。力なき政党に国は任せられない。その信念に基づいてあなた方を返り咲かせた。あなた方の実務能力を買ったのです。それは冷静な判断だったと私は思います。問題は、その判断力以上に、人情を大切になされたということだ。人情はときにモラルをないがしろにします。結果、偉い立場の人間は何をしても許される社会がやってきてしまった。閣議決定しさえすればあらゆることが正道として認められる、そんな国家が出来上がった。それを我々は正さなければなりません」
浅野さんの肩が震える。
「それは、つまり……」
「我々の元を訪ねるのは、なにもあなたがただけではないということです。たとえば高知は、あなたがたの牙城とは呼べない。我々が認めた候補者が勝てなかった選挙も歴史的には存在する。我々は絶対ではない。だからこそ、我々にも選ぶ権利はある」
「勝てない戦はしたくないということですか?」若先生の口調は大らかで、寛いでいるのがわかる。「徳島の盟主と呼ばれる者の発言とは思えないなあ」
「買いかぶりです」子泣き爺の口調は荒んでいた。「あなたがたの幻想なんですよ、全て。だから必要ないと思うか、だからこそ必要だと思うか。幻想の価値とはそういうものです」
子泣き爺の目が若先生を射抜く。若先生は動じない。浅野さんばかりが焦って、しきりに汗を拭いている。ワタルはいらいらしてくる。なんだこの茶番は。
「先生、もうやめましょう」ワタルは秘書だけでなく若先生のボディガードも兼ねている。つまり身体が分厚い。強面であり、おまけに声も低い。「若先生、もうやめましょう」繰り返してみる。それなりの迫力が出る。子泣き爺は怯えはしない。ただ淋しそうにワタルを見やるだけだ。
「おい、若造っ!」
浅野さんが立ち上がり掴みかかろうとするのをワタルはわずかに身体をひねっただけで躱す。
若先生は「ん?」とワタルを見上げる。視線が絡まる。それだけでワタルの胸は高鳴る。その一瞬の交歓に子泣き爺の目が冥く沈む。
「浅野さんは先代とは親しかったのかもしれない。しかし、この当代とは出会ったばかりなのでしょう? 彼が本物かどうか、お確かめになりました?」
「何っ?」と言ったきり、浅野さんは黙り込んだ。最初は泳いでいた目がやがて子泣き爺へと合わされていく。絵に描いたように「疑念」が生じていくのがわかる。やがて呟く。「若造、か……」
「そう、若造ですよ。こいつが本物の子泣き爺なのだとしても、初仕事ってことでしょう。それならば、こちらにだって試しがいる。違いますか?」
「どうすればいいのです」
浅野さんに向けた問い掛けを子泣き爺が素早く拾う。ワタルはふてぶてしく笑って見せる。
「おれに見せてみろよ、証拠を。お前が子泣き爺だっていう、確たる証拠を、さ」
こうして別れた子泣き爺を、ワタルはその夜、拾って帰った。
「まさかあんな手でくるとはなあ」
ワタルは笑いながら、ベッドの上にうつぶせに横たわる子泣き爺の紅潮した裸の背中を愛撫する。さらさらとした銀髪の上から口づけをする。氷砂糖のような味がする。
選挙活動用に事務所が借りてくれたウィークリーマンションは繁華街の外れにあった。確かに人通りは少ない。けれど、誰も通らないわけじゃない。
そこに大きな段ボール箱が落ちていた。いや、置いてあったという方が正確だろう。成人男性一人が横たわれる大きさだ。目立たないはずがない。
「でも、気付いたのは君だけだっただろう?」
枕から顔をあげずに話す子泣き爺の声はくぐもっている。細いが貧弱ではない身体は震えている。おそらくは、羞恥に。
怪しすぎる段ボール箱の中を覗くと、そこに子泣き爺がいた。銀髪の眼鏡の美丈夫のまま、素っ裸に、金太郎の「金」の一字を染め抜いた赤い前掛け一枚だけを纏った彼があおむけに寝ていた。ワタルと目があうと赤面し、控えめに一声、泣いた。「おぎゃあ」
「もっと威勢よく泣けよ、子泣き爺だろ?」
からかうと、子泣き爺は身体を起こして抗議した。
「恥ずかしいんだよ! 恥ずかしいだろ、ふつう!」
目が潤んでいる。まあ、かわいいかな、とワタルは思う。
「じゃあ、続けようよ。子泣き爺らしく」
「え?」
「しがみついたら離さない。死ぬまで抱きしめる。それが子泣き爺ってもんだろ?」
ワタルはどちらかと言えば、抱かれる方が好きだ。子泣き爺も、それをもちろん知っている。だから応じる。細い身体だが、背は子泣き爺の方が高かった。そして力も強い。こいつが若先生を襲ったら、おれでは守れないかもしれない。そう思いながら位置を交代する。ワタルはベッドに手をついて息を吐く。子泣き爺のひんやりとした身体が重なる。ずっしりとした重量感が下半身にのしかかる。
海が見えることを期待して窓を開けた。方角は間違っていないはずだが、見えたのは、つい先日、子泣き爺を拾った通りとその向こうの繁華街だけだった。まだ早朝だが、繁華街の方には既に数人の人影が見える。
紙巻を咥えたワタルを後ろから抱きしめたのは若先生だ。小柄な若先生の身体は子泣き爺のようにワタルの身体を包み込むことはできないけれど、その肌は同じくらいひんやりとしていて、そして格段に心地よい。
「子泣き爺のモデルは、人間だったという説があるんだよ。赤ん坊のような声をあげながら徘徊する老人の目撃談が、この徳島に残されているらしい。子泣き爺は、どこにでもある山の怪異とこのおかしな老人の記録が結びついた妖怪だというんだな」
「なんでそんな話、するんですか」
「ヘンゼルとグレーテルもね、グリム童話の中では異端だと聞いたことがある。固有名詞の出てくる話は珍しい。これも現実の記録が元になっているんじゃないかと言われている」
「だから、なんで……」
「煙草はきらいだ」
若先生がワタルの咥えていた紙巻をそっと取り上げる。子泣き爺はワタルがくゆらせる煙草が好きだ。「ぼくにも一本、頂戴」とねだる。吸いかけをくれてやると喜ぶ。うまそうに煙を吐く。
「本気になるなよ。君はコンパニオンだ」
ワタルの身体が冷えていく。若先生の方が、本来、体温が高い。先生の腕に力がこもる。
「僕を捨てるなよ、ワタル」
本気かどうかわからない。若先生は政治家だ。特に昨今の政治家はモラルに欠ける。彼らにとって、呼吸をするのと嘘をつくのとは同義だ。
「今度は、抱いてあげましょうか」
ワタルが軽口をたたくのに、若先生は腕の力を緩めることで応える。取り上げたままだった紙巻を窓から外に放る。ほらね、やっぱりモラルに欠ける。南向きの窓を、ワタルは閉める。