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加藤シゲアキ『オルタネート』選評を読む(「第164回直木三十五賞」篇)

※この記事は、第164回直木三十五賞の選評内容に触れています。先入観なく原文にあたりたい方はご注意願います。

全候補作中、第二位だった(と思しき)『オルタネート』

 加藤シゲアキ『オルタネート』(新潮社)の進撃が止まらない。
 「直木賞」候補に続いて、「本屋大賞」「吉川英治文学新人賞」とビッグタイトルへのノミネートが続いている。
 特に「吉川新人賞」は、「直木賞」「山本周五郎賞」と並ぶプロのエンターテインメント作家に対する新人賞(実質的には中堅・実力派作家に贈られる「免許皆伝」的な賞だと思うが)の三大タイトルのひとつなので、デビュー当時はイロモノ作家扱いされていた(あくまで私見です!)シゲが、文壇において、しかるべき実力派として一目置かれるようになったという事実は、作家・加藤シゲアキのファンとして、率直に、大変うれしい。
 発売されたばかりの「オール讀物」(2021年3・4月合併号)に掲載された直木賞選評に目を通してまず感じたのは「好意」だ。
 『オルタネート』を推した人もそうでない人も、総じて「好意的」と受け取れる筆致で本作の美点や欠点に丁寧に触れている。
 また、何人かの選考委員は、受賞作と『オルタネート』との二作受賞を目指したと明言している。
 受賞作である西條奈加『心淋し川』が圧倒的な支持を集めたことを考えると、『オルタネート』の高評価を「全候補作中の第二位であった」と言っても、過言ではないと思う。

「オルタネート」という設定にみる加藤シゲアキの「残酷さ」

 タイトルにもなっている「オルタネート」という高校生専用のコミュニケーションツール。
 『オルタネート』が青春小説として高く評価される一方で、このSNSでありマッチングアプリでもあるツールの「設定の甘さ」を作品の弱点としてあげる声をネット上でいくつか目にした。私自身もそこは、若干、気にはなったところだったのだけれど、今回の選評においても、この「オルタネート」の是非については多く触れられているという印象を受けた。
 面白いのは、その設定の甘さ、緩やかさを「弱点」とする意見一辺倒ではなかったという点だ。
 『オルタネート』への授賞を強く望んだという北方謙三氏は「オルタネートとかいうものが、ただの道具だということに、得心が行ってしまった」と述べ、「電話よりかなり発展した程度」と整理する。「描かれているのはあくまでも青春の熱情」であるとし、青春小説としての完成度の高さを賞賛する。「オルタネート」という設定が甘かったからこそ、そこに描かれる普遍的な感情や情景が際立った、とする見方かと思う。
 対して、林真理子氏のように「こちらをもっと中心に据えるべきだったのでは」と、「オルタネート」をもっとしっかりと描くべきだったのではないかという立場の選考委員も多かった。
 桐野夏生氏は、「オルタネート」をダウンロードしていない蓉と、高校を中退したことで「オルタネート」から排除されてしまった尚志について、だからこそ、この二人は「青春」を生きられたのだと整理する。
「蓉や尚志がいることで、読者は「青春小説」だと幻惑されてしまうのだが、彼らが存在しなかったら、どんな世界になるのだろうか。そんなオルタネートどっぷりのものも読んでみたい」
 最も詳細に「オルタネート」の設定の甘さを問題視したのが三浦しをん氏。
「読み進むうちに、オルタネートの仕組み(本人が自己申告しなければ、高校中退したことはわかりようがないのでは? など)や、この世界のLINEの有無について疑問が生じたのも事実だ」
 「そもそもオルタネートがなくても、この小説は成立したかもしれない」という三浦氏の感懐は、タイトルにまでなっている重要設定の甘さを問題視する読者の声を代表するものであるように思う。
 私自身も頷くところの多い、この三浦氏の評に対し、遠回しではあるけれどひとつのアンサーとなっているのが、宮部みゆき氏のこの一文。
「年齢制限ではなく、高校生でなければ使えない(使わせない)という線引きは、何気ないようでいて残酷ですし、作者の現実を見る目の鋭さを伺わせるものです」
 宮部氏の指摘する「残酷さ」は、たとえば三浦氏が投げかける「本人が自己申告しなければ、高校中退したことはわかりようがないのでは?」という疑問点に明確に回答しているように思う。
 つまり、「オルタネート」とは、「自己申告などしなくても高校中退したことがわかってしまう」システムなのだ。
 ここからは、「オルタネート」が実用化されている世界が、現在の私たちの社会よりもずっと厳格な管理社会であるということが読み取れるのではあるまいか。
 そして、その「厳格な管理社会」は我々にとって決して遠い未来の現実ではないはずだ(もしかすると既に、今すぐにでも「オルタネート」が実用可能な状況にあるのかもわからない)。その世界設定の残酷さ、現状認識の確かさを持って、宮部氏は「作者の現実を見る目の鋭さ」を認めるに至ったのではないか。
 さわやかで希望に満ち溢れた青春小説としての「表面」とは裏腹に、現代社会の残酷さがそれとなく描かれているということを宮部氏の評は語っているように私には思える。
 幾人かの選考委員が指摘している「表面だけが描かれているのではないか」というような評に、だから、私は賛同しない。
 この小説には、表面的に読んだのではわからない「暗く厳しい視座」が読み取れるし、そうした現実認識のうえに成立しているからこそ、青春群像劇としての輝きが際立つのだと思う。

直木賞選評にみる「作家・加藤シゲアキ」像

 作家・加藤シゲアキの創作姿勢というか、「作家としてのありよう」について、かなり踏み込んだ発言をしているのが高村薫氏だったのではないかと思う。
 全候補作家が初ノミネートとなった今回の選考を新鮮な体験だったと振り返りつつ、「想像以上にオーソドックスで、小説はいまや、模倣もしくは再生産の時代に入ったのかもしれないという思いを強くした」という高村氏は、『オルタネート』についても「近年の学園もののマンガやアニメの世界そのもの」とやや厳しい指摘をしたようにも思うが、一方で、「本作はむしろそれらと肩を並べることを本気で目指したのだろう」と評価もしている。
(ただし、「その意味では、積極的に模倣へと踏み出した小説の最前線なのかもしれない」がこの節の結びとなっているので、好意的な評と受け取るべきかどうかは議論があるとは思う)
 この高村氏の評に思い出されたのが池上永一氏の長篇小説『シャングリ・ラ』(角川文庫)だった。
 2004~2005年にアニメ情報誌である「月刊ニュータイプ」に連載され、後にコミック化・アニメ化が進められた本作について、連載時のエピソードとして池上氏が毎月封入されている「アンケートはがき」のことを語っていたのが印象に残っている。毎号、すべての記事が列挙され、その中から読者が面白かったものを選ぶというこの営みにおいて、活字メディアとしてどう戦うか。他の記事に比べてどう面白いと思ってもらうか、とにかく必死に考えて書いていたというエピソードなのだが、加藤シゲアキという作家の中にはデビュー以来、このときの池上氏に近いメンタリティがあるのではないかと感じていた。
 自らがアイドルとしてエンターテインメントの最前線に立っているシゲの中には、様々な娯楽メディアと横並びになったときに小説というメディアをどうしたら選んでもらえるか、どうしたら楽しんでもらえるかという視点が常にあり続けていたように思う。
 それは、専業の小説家には良くも悪くも保ちがたい立ち位置で、だからこそ、加藤シゲアキのありようというのは、小説というジャンルにおいてとても貴重なものであるように感じられる。
 高村氏の評は、そんな作家・加藤シゲアキの立ち位置を浮き彫りにするもののように思えて嬉しかった。
 また、加藤シゲアキの「作家としての時間」に触れていて印象深かったのが伊集院静氏。
「難を言えば、少し真面目に取り組み過ぎなのでは、と感じてしまう。小説家の時間は、氏が想像するよりゆったりとして長いものである」
 情緒的な書きぶりなので、述べたいことがやや曖昧であるようなきらいもあるが、この「小説家の時間」という概念は「作家・加藤シゲアキ」を考えるにあたって重要なポイントなのではないか。
 シゲの時間はとても速い。その速さがアイドルとしての生活によるものなのか、先に触れた「他メディアと横並びに評価される存在としての活字メディア」を意識しているが故なのかはわからないが、たとえば『できることならスティードで』に収められている掌編小説群にはその「速さ」が際立つように思われる。
 私自身は、『オルタネート』はシゲにしてはゆったりと構えた作品であったように思うが、その「速さ」を伊集院氏が「真面目さ」あるいは「窮屈さ」と受け取り、「もっとゆったり」と語りかけたくなる気持ちには共感できる。
 個人的にはその「速さ」故に成しえる作風があると考えているが、伊集院氏のアドバイスによって進化するシゲの姿も見てみたい。

ともあれ、伊集院氏に「同時受賞を目指したが、こちらの力不足だった」とまで言わしめた『オルタネート』。
これからの長い賞レース、その結果を、あらためて、楽しく待ちたいと思う。


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