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ますく堂読書会レポート:読書サロンにて『須永朝彦小説選』を読む

追悼出版にて、ついにブレイク?
「孤高の文学者・須永朝彦」の回想


ティーヌ 
セクシュアルマイノリティが登場する小説を課題として開催される読書サロン、二〇二二年六月の課題作は、ちくま文庫から刊行されている山尾悠子編『須永朝彦小説選』です。まずは、この本を推薦いただいた益岡さんから一言お願いします。
益岡和朗(以降、益岡) 
皆さまお疲れ様です。今回は、持ち込み企画と申しますか……僕の発行している《ますく堂なまけもの叢書》という文芸同人誌がございまして、これは「古書ますく堂」さんと一緒にはじめた、読書会や座談会を活字化し、同人誌として刊行するという企画です。
今回、この『須永朝彦小説選』読書会の様子を《ますく堂なまけもの叢書》の一冊として活字化したいとティーヌさんに申し出たところ、ご快諾いただき、実現に向けて動いているという経緯です。完成した冊子は今年の秋の文学フリマ東京で頒布する予定ですので、どうぞよろしくお願いいたします。
実は、この本の作者である須永朝彦さんとは個人的におつきあいがございました。新宿の朝日カルチャーセンターで須永朝彦氏が講座を持っておられた時期があり、僕はその受講生だったんですね。先生が講座を持たなくなってからも、断続的におつきあい頂いていたのですが、その須永先生が昨年急逝され、追悼出版として幻想小説家・山尾悠子さん編纂によるこの一冊が刊行されて、大変な話題になったわけです。
劉靈均(以降、劉) 
なんで生きているときに~!(涙)
益岡 
そうだよね。そういうことですよね。
 
この本も、「ユリイカ」追悼号(『総特集 須永朝彦 1946-2021』)もそうですけれど、本当にたくさんのひとが須永さんの作品や須永さん自身について熱く語っていますよね。でも、生前の須永さんが言っていたのは、「劉さん凄いですね」と。「なんでですか?」と聞くと、「外国の方なのに、私の作品のような誰も読んでいない、誰も読みたくないようなものをちゃんと読んでくれてて……」と。そのとき、内心思っていたのが、「私自身も三分の一くらいしか読んでいないんです……」ということだったんですけど。
益岡 (笑)
 
言えなかったんですけどね……それで、今回、須永さんが亡くなった時に自責の念があって読まなければと思ったんですけど、それでもなかなか読めなかった。この読書会のおかげで、全作品の三分の二くらいは読破しました。
「ユリイカ」を読むとわかるんですが……私は日本の文壇には詳しくないのでまったく別の文脈で原稿を書きましたけれども……よく言えば、須永さんは「孤高の作家」で「須永ワールド」は様々な新しいものをこの国の文学・エンターテインメントに与えたと思う。ただ、人格的なところ、人間関係の部分で色々と難しい方だったんだな、と。生前にはみんな言えなかったことが、この「ユリイカ」で噴き出している。それはそれで良かったんだろうと。
益岡 
うん。色々と貴重な証言がありましたよね。
 
「ユリイカ」に寄稿した「朝彦親王台湾航海記 台湾の作家・呉継文への影響から須永朝彦文学の価値を再考する」は、私の研究している台湾の作家、呉継文と須永朝彦作品の関係性について書いた論文二本の内容と須永さんとの個人的な交流を絡めて書いたものですが、須永さんとの私の出会いの発端は、この呉継文の作品なんです。この人は、未だに小説は二作品しか書いていません。一九九六年と一九九八年に一冊ずつ。デビュー作は清時代の世情小説──水商売の世界を舞台にした小説を下敷きにした作品です。この作品に登場する「水商売」は男性が身体を売るもので、明・清の時代は「風紀を乱す」ということで「京劇」を女人禁制のものとしていました。日本の歌舞伎に近いと思うのですが、その京劇を演じる役者が身体を売る。そういう世界を舞台にした古典作品を、呉継文は、当時のLGBT運動やフェミニズムの理論を取り入れて改作したわけです。そのタイトルが『世紀末少年愛読本』でした。
当時の作品論を読むと、このタイトルの意味について、二十世紀の終わり、ミレニアムを象徴するものだというような分析がなされているんですが、ある日、古本屋で私は偶然、須永朝彦さんの二冊の本を見つけて、この分析が的外れであることを知るんです。その本が、一九八八年に刊行された『泰西少年愛読本』(新書館)と『世紀末少年誌』(ペヨトル工房)でした。つまりこのタイトルは、この二冊のタイトルを足して二で割ったものだった。
もちろん、海外のかっこいいタイトルを元ネタにして小説の題名にするというのはどこの国でもよくあることかと思うのですが、呉継文の場合、作品的にも影響を受けていると感じたんですね。それが、古典文学の現代語訳と現代的解釈によって新たな小説を作り出すという手法です。この創作法は須永作品の根幹をなすテクニックだと思います。もちろん、古典の稚児文学などを軽く元ネタにしたような作品は他の作家にもあるでしょうが、須永さんの場合、現代的な感覚・情報を駆使した膨大な独自解釈を投入して作品に仕上げてしまう。これは非常にユニークなもので、呉継文作品にも大きな影響を及ぼしていると思います。
もっとも、この二冊を見つけた段階では、私は須永朝彦というひとをまったく知りません。少し調べてみても「昔、有名だった」ということくらいしかわからなかった。そんなとき、たまたま、東京でイベントがあって、たまたま、こちらに顔を出したんです。そうしたら、このお方が……
益岡 (笑)
ティーヌ 
運命だよ。
美夜日 
運命、運命(笑)
 
当時、私は「台湾のLGBT文学に日本文学が与えた影響」について調べていた。私の分析では、三島由紀夫文学と村上春樹『ノルウェイの森』にあるレズビアン描写が重要である、と。そして、それらと並ぶようなかたちで「須永朝彦」という名前に注目するべきじゃないかと思い始めていたところだったんですね。呉継文作品がこの作家に強く影響を受けていることは間違いない。それに当時は誰も気づいていない。論文もないし、私自身もどこにも書いていない。そういう状況で、メモとして書きなぐっていたものを益岡さんにお見せしたんです。私は、「三島由紀夫」を見せたつもりだった。そうしたら益岡さんが「須永朝彦」に強く反応されて「この人知ってる」と。「ほっ?!」と。
益岡 (笑)
 
「もし会いたいなら紹介できる」と言っていただいて、それで須永さんとの縁がつながった。これは極めて個人的なことですが……須永さんとの出会いは、私のような外国人が……ただ、この国で適当な学位をもらって、国に帰って仕事をするという生き方をするはずだった人間の人生を変えたんですよ。
須永さんと直接お会いしたのは二回なんですが、一回目は益岡さんに紹介していただいた二〇一五年です。竹久夢二美術館で初めてお会いした。そのとき言われたのが、「私のような忘れられた老人に、なんの御用でしょうか?」
一同 
へー……
益岡 
冗談めかして、ですよ(笑)
 
いやいや、でも、本音だと思うんです。ご本人は本気で言っていたと思う。
益岡 
うん。それはそうでしょうね。そんなに重たい感じでは言わなかったというだけで、本気は本気だったと思います。
 
自分はもう売れっ子じゃないという思いは強かったと思う。忘れられた存在だという意識は強く持っておられたと思います。
二回目は、二〇一六年に長野県のご自宅に一人で伺ったんですが、私のためにサンドイッチを作ってくださった。近所に店がないから、わざわざスーパーへ行って材料を買ってきてくれた。その二、三か月前に自転車で車と接触事故を起こして怪我をされて……そのときも、腰がまだ痛いと仰っていたんですけど、それでも私のために料理をしてくれたんです。
私が言いたいのは、台湾はLGBT文学の先進国だと言われていますが、日本にも須永さんのような先進的な文学者は存在していたということなんです。そういう方が、経済的な理由、お金がなくて、広告、宣伝ができず、知られないまま亡くなられていく。この国にとってそれは大変な損失だと思う。台湾において、私のような研究が成立するのはセクシュアルマイノリティの文学が市民権を得ているからだと言えると思いますが、日本においてもそうした可能性、もっと早い段階でメジャーな文学として受け入れられる土壌はあったということなんです。
なぜ、須永作品が呉継文に影響を与え得たかといえば、これはもう単純に呉継文が日本に留学していた時期が関係しているんだと思います。彼は一九八〇年代後半に広島大学に留学し修士号をとった。当時の台湾において彼はLGBT文学の先駆者だったんです。その後、例えば、この読書サロンでも課題作になった『次の夜明けに』(書肆侃侃房)の徐嘉澤さんなど日本で学ぶ作家が出てきますが、当時は彼しかいないというような状況だった。そんな彼が日本で、自分と非常に近しい作家に出会った。これは衝撃だったと思います。そしてそれが可能だったのは、ひとえに当時、須永朝彦が「流行っていた」からだと思うんですね。もし、この時点で須永朝彦が無名であったなら、呉継文の仕事はなかったかもしれないし、台湾がLGBT文学の先進国にはなりえなかったかもしれません。
二人の共通点としては、さきほどあげた古典に材を取るというところもありますが、その後たどった文学的な道程にも近いものがあります。それは、二人とも、まずは小説を書き、その後はもう、実質、小説は書かず、自作のいわば「註」を書き続けたという点です。
須永さんは、吸血鬼であるとかババリアのような西洋の王朝であるとか……自分の好きなことを語ったり、好きなものを集めてアンソロジーとして発表したり、いわば自分が初期に発表した小説の元ネタを話し、解説し続けた人生だったのではないかと思います。呉継文もまた、初期作品のベースとなった「日本」にこだわった文学活動を続けていく。とりわけ日本作家の紹介は大きな仕事で、吉本ばなな、藤原新也といった現代作家を翻訳し、辻仁成や柳美里を紹介していく。台湾では日本文学翻訳ブームの火付け役という位置づけになっていますが、同時に、これらの作家・作品は、自作を形作った大きな要素でもあったわけです。
初期に小説を発表し、後の文学者人生をその分析に費やしていくという「在り方」を一種の「文学的手法」として捉えるならば、両者は極めてよく似ています。そして、須永朝彦は呉継文よりも二十年早く、その手法にたどり着いている。これは大変面白い図式であると思います。
益岡 
今、劉さんがお話しになった「註」という概念は、オマージュとか、二次創作といった概念とも一部重なるのではないかと思うんですね。劉さん自身の「朝彦親王台湾航海記」も澁澤のオマージュで、これはもちろん澁澤龍彦の『高丘親王航海記』(文春文庫)と編集者の礒崎純一さんが書いた澁澤龍彦伝のタイトル『龍彦親王航海記』(白水社)を意識したものですよね。
 
須永さんは澁澤龍彦が好きだったと思うので……
益岡 
そうでしょうね。先生はきっと、劉さんが自分を澁澤に準えてくれたことを喜んでおられると思います。作品的にも、澁澤と須永先生は近いところがあって、それが、どちらも「種本を持つ小説」の名手であるということ。劉さんの「註」の話を聞いていて、須永先生と澁澤龍彦は同時代人ではあるけれど、やはり、「澁澤の系譜」の中に須永作品も位置付けられることになるのだろうな、と改めて感じました。

須永朝彦文学のキーワード
「恥ずかしい」を巡って


 
須永朝彦文学をどう位置付けるかということは、難しい。やはり私は、須永文学は孤高のものであると思いますが、須永さんの作品を読み解くにあたっての私なりのキーワードがあって、それが「恥ずかしい」なんです。
二〇一六年に長野のお宅に伺った際に直接お聞きしたことがあります。「どうしてあなたの作品には現代の日本の人がほとんどいないんですか?」と聞いたら、こうお答えになりました。「恥ずかしいからです」
ティーヌ 
うーん……
 
もし書いたら、読者が勝手に「これってあのひとじゃん、このひとじゃん」と勝手に想定されてしまうから、それは恥ずかしい、と言っておられました。
益岡 
なるほど。
ティーヌ 
文壇っぽい(笑)
 
ただ、須永さんの「恥ずかしい」はそれだけではなかったと思うんですね。一九八〇~九〇年代の時点では日本においても、LGBTは社会的に受け入れられていたとはいえない。あくまで同性愛は「趣味」だった。そんな中で、アイデンティティたる「趣味」を表現するにあたっては、堂々と語るためには、耽美にしなければ、美しくしなければならない。そしてもうひとつ、重要なのが「典拠のあるものでなければならない」。その意識が須永さんには強くあったと思います。
今でもそういう意識は残っていると感じていますが、当時はより強く、こんな考え方があったと思います。「同性愛は、舶来品」
益岡 
ああ、なるほど。
 
だから、須永さんは「いや、わが国にもありますよ」ということを証明するために、様々な情報をたくさんかき集めた。これはおそらく、須永朝彦が同性愛者として、そのアイデンティティの正統性を確立するために為したことだと思います。極めて個人的な都合や感情を契機とした行為だったと思う。自分が「恥ずかしく」ないようにするための行為だったわけですから。
しかし、それは、結果的にはとてもポリティカルかつクリティカルな行為になっていたと私は思う。しかも、とても社会運動的。社会運動というのは、ひとりひとりの生存状態に応じて、その不満、不足を解消しようとするためのものですから。
須永朝彦の知識体系は、実は自分の「恥ずかしさ」をいかにカバーするかということを目的に構築されていったものだと私は思います。だからこそ、果たして彼が亡くなるまでに、「男が好きだということ」しかも「かわいくて若い男の子が好きだということ」を完全に肯定出来たかどうか、私にはわからない。須永さんは最後の最後まで、「私の欲望は正しかった」と宣言するための何かを集め続けていた。ある種の弁明を行うことが、彼の創作だったと思います。
だから、あえて、同時代の自国のものは書かない。海外の聖典や、由緒あるもの……須永朝彦作品では家柄や血筋がクローズアップされますよね。「〇〇大公」というような設定は、すべて、血脈を、歴史を求めているわけです。同性愛者と「血筋」が縁遠い存在であることはおわかりいただけると思いますが、須永朝彦はあえてそれを探るわけです。「泰西の古典でも、わが国の古典でも、中国の古典でも、それは確かにあった」ということを提示することで、「私の欲望は正しかった」「正常だった」「古代からあった」「我が国のものだった」「全世界にあった」と主張していくこと、それは、現在の社会運動の在り方にも通じるスタンダードな手法です。それを、須永さんは一九七〇年代の時点で、小説を発表するというかたちで実践していたといえる。そのアクションは、私には、あまりにも早すぎたように思えます。
益岡 
今、すごくいい話を聞かせてもらったな、と感激しているのですが……僕はずっと須永先生の作品を読むときには、政治的な意義や社会的な意義、そういう小難しい議論とは切り離さなければいけないという意識を持っていた。須永先生はそういう世俗の生臭いこととは切り離したところで、本当に好きなことだけを好きなように、自分の読みたいものを「至高のおとぎばなし」として書いて、そしてそれを理解してくれる同好の士と共有するという、そういう文学活動を貫いたひとなのだと勝手に解釈していた。だから、そういう、政治や社会と結びつけて先生の作品を読むことは一種の冒涜なんじゃないかというような固定観念があったんです。
 
須永さんは、私が話したようなこと、ぜったい、考えてないですよ(笑)私が勝手に言っているだけで。でも、私の話したようなことを、仮に、意図的に実行したいと考える文学者がいたとして、一九七〇年代くらいの情勢であれば、私は須永さんが行ったようなやり方しかなかっただろうと考えています。
益岡 
はい。劉さんがおっしゃったような営みに、作家の意図はともかく、結果的に、須永作品がたどりついていたのではないかという分析については、僕自身、ものすごく納得するところがあります。
先生が亡くなられてから読み返した本の中に『日本幻想文学全景』(新書館)という編著があるんですが、これは日本の幻想文学を古代から一九九〇年代まで具体的な作品をあげて編年的に綴っていくという、日本幻想文学の一大カタログといった趣の書物です。このいちばん最初に須永先生があげたのが、「浦島子伝」なのですが、二十代の頃はまったく気にならなかったのに、今回、読んでみて強く感じた違和感があったんですね。
いわゆる浦島伝説のもっとも古い作例として『日本書紀』での記述が紹介されるのですが、「舟に乗りて釣す、遂に大亀を得たり、便に女と化る、是に於いて、浦嶋子、感りて婦と為す」とある。シンプルに読めば、「釣り上げた亀が女になって、その女と結婚する男の話」ということになるわけですが、これ、我々が知っているおとぎばなしの「浦島太郎」とは大きく違っていますよね。亀はたいてい「男」を表象するものとして描かれている。そして、竜宮城へ行ってはじめて、太郎は乙姫という「女」と出会う。でも、最初期のものは亀と乙姫が一体なわけです。これがいつの頃からか、太郎を竜宮城へ運ぶ、力仕事をする「男」と客を遇する「女」という役割分担が出来、分離した。これはかなり重要な変化だと思うのですが、須永先生はそのことには一切、触れていない。後の変化として示されるのは「報恩譚」になった──道徳的な物語に変じたということだけで、この役割分担による「分身」には触れていないんです。もちろん、単に異類婚姻譚の最もプリミティブなものとして紹介されただけかもしれない。少なくとも二十代の僕はそう読んだ。でも、これが、たとえば語らないことによって何かを示さんとしたものなのだとしたら……と、現在の僕は想像してしまったんですね。
「大亀」は「異類」として、人間における「セクシュアリティ」からは自由になっている存在だったものが「女」に「化る」=「化ける」と表現される。これが最初期の表記なのだとすれば、女に化けなければ番えないという後の「常識」によって「物語が簒奪された」という可能性もあるのではないか。さらに、浦島伝説の多くが「亀」を「男」の表象として捉え、別に「女」を置いたことを考えると、本来、これは同性同士の物語だった可能性もあるのではないか。
もしそういう可能性に須永先生が潜在的にでも気づいておられたならば、先ほど劉さんがおっしゃったようなポリティカルな文業にあたるのではないかと感じたんです。
『日本幻想文学全景』もそうですが、須永先生のお仕事は、この国の「幻想文学」──ファンタジーやSFも含む、非現実的な事象を描いた文芸作品の歴史をつくってしまったようなところがある。古典への造詣の深さ故に、古来の幻想文学を拾い上げることが先生には可能だった。そして、そこには同性愛的な要素も──少なくとも「異性愛」には落とし込むことの出来ない性愛の物語も、多分にあるのだということを先生は織り込んでいったわけです。それが、傍流とはいえ一国の文学史の「正典」となっているような現状がある。劉さんの言うように、こうした須永先生の仕事は、極めてポリティカルなものであると思います。
 
そういう仕事の中で思い出されるのが、須永さんの歌舞伎の師匠筋にあたる郡司正勝さんのお仕事ですね。『桜姫東文章』の発端は衆道なんです。男同士が心中しようとするところから始まる。この場面は鶴屋南北が書いたオリジナルにはあったものの、ずっと上演されずに来た部分だった。それを郡司さんは復活させて玉三郎に演じさせるわけです。これは、歌舞伎の、女形の最高峰と呼ばれるひととともに、クィアな文芸を復興させるという営みですから、すごく、すごく、大変なことです。
益岡 
そうですね。この郡司さんの営みに須永先生が直接関わっていた可能性は年代的には低いと思いますが、それでも後の郡司さんの文業に先生が果たした役割は大きかったと思いますし、もちろん、先生が郡司さんから受けた影響は甚大なものだったと思います。
そういう縁もあるからかと思いますが、須永先生には歌舞伎の世界において権威的な地位にあった時代が、短い期間かもしれませんけれども、確かにあったのだと認識しています。坂東玉三郎さんとの関係で言えば、昭和五十八年にギリシア悲劇の『メディア』脚本を手掛け、それをきっかけにして玉三郎さんとの対談本『玉三郎舞台の夢 坂東玉三郎VS須永朝彦』(新書館)を出版しています。玉三郎さんとの対談本を、しかも自身の名前を添えた形で出している人なんて、多分、他にはいないと思うんですね。この辺りは、「ユリイカ」で児玉竜一さんが「須永朝彦と演劇──坂東玉三郎、そして郡司正勝」として詳しく書いておられるので是非お読みいただきたいと思います。それにしても、この追悼号は本当に須永先生の様々な活躍に広く目配りをした構成になっていて素晴らしいですね。
そろそろ、今回の課題作について議論していった方がいいと思うのですが(笑)、その前に少し、僕の方からも劉さんと初めてお会いしたときのことを話しておきたいと思います。劉さんと須永先生を繋いだきっかけは、まさにこの読書サロンだったわけです。もっとも、読書会自体ではなく、二次会だよね?
ティーヌ 
うん、そうそう。
益岡 
二次会で劉さんに会って、劉さんの手帳をちらっと見せてもらったら、「三島由紀夫」と「村上春樹」のあいだに「須永朝彦」がいるわけよ。僕は驚嘆しましたよね。だって、そんな日本文学史がありますか?
一同 (笑)
益岡 
だから僕は「須永朝彦は台湾では広く受容されているんだ」と思い込んでしまった。
 
実はね、これはどう考えてもアクシデントです。
一同 (笑)
益岡 
そうだよねえ(笑)
 
私の手帳の記述を益岡さんが誤解したこともそうですが、何より、呉継文さんがたまたま日本に留学しているときに須永さんが日本のクィア文学の中でいちばん売れっ子だった。それもまた、アクシデント(笑)
ついでに、呉作品と日本の関係でもうひとつ触れておきたいのが、作中の性別変更手術に関する記述なんです。かなり詳細な情報が示されているんですが、台湾は戒厳令が解除されたばかりで、そんな情報は入って来ようがない。ではどこでその情報を得たのか? 日本のテレビでカルーセル麻紀さんが話をしていたんですね。それを呉さんは観て書いたんです。八○年代から九○年代にかけて、アジアで一番開放的だった国は間違いなく日本です。これは断言できる。「一九九〇年」という時間に固定して考えると、まず中国は天安門事件の直後です。報道やエンターテインメントが開放的であるわけがない。台湾は先ほど触れたとおり戒厳令が明けたばかりです。韓国も軍事政権的な性格がまだ強い時期でした。北朝鮮は言うまでもない。ベトナムは共産政権、フィリピンは独裁政権、タイはアンダーグラウンドなところでは進歩的ではあったけれど、日本のように公に、テレビでセクシュアルマイノリティの言葉や、情報が発信されるというような状況にはなかった。
ティーヌ 
台湾の研究者である張文靑先生も、戒厳令が敷かれて海水浴も出来ないような台湾で、大島渚監督の『戦場のメリークリスマス』が上映された、と。「なんだこの日本という国は?」ともの凄い衝撃を受けたという話をされていましたね。
 
アジアの、当時のLGBT当事者にとっての「夢見る対象」として、日本の映画は最も有効だったわけです。同じように当事者が描かれた映画であっても、金髪碧眼では自身を投影しづらかった。黒髪の黄色人種であるからこそ、共感の対象となりうる。そうした作品は当時、日本の文化の中にしかなかった。
美夜日 
カルーセル麻紀さまや美輪明宏さまは当時、既に大スターだったでしょうからね。
 
そんな日本文化からの影響ということでいえば、呉継文が須永朝彦を種本として選んだというのは、今となっては、かなり「ヘンな人」というか、ユニークなものを選んだと言えると思います(笑)
美夜日 
台湾文学全体はともかく、呉さん個人としては、須永朝彦作品の影響を強く受けているといえるんですかね?
 
先ほども触れたとおり、古典に材をとるという部分などは須永作品の影響が強いと思いますし、その後、文学者として辿った道にも共通するところはあると思います。あと、私は個人的にも呉さんを存じ上げていますが、彼自身もまた、「恥ずかしい」の人だと思いますね。これは文学的な面というよりは人間性の面になりますが、須永さんとお知り合いになった後、呉さんと須永さんを引き合わせようとしたことがあったんですね。「お会いしてみませんか?」と呉さんに聴いたら、「会えない」と。「恥ずかしいから会えない」と仰ったんです。そのとき、やはり二人は似た者同士なのだな、と感じました(笑)
美夜日 
なんかかわいいですね。「推し」に会えないファンの乙女心。アイドルには会いたくないというタイプ(笑)
 
作風としては、もちろん、違う部分もあるんです。ともに耽美な世界ではあるんですが、呉継文作品には仏教的な色彩が強いんですね。だから、「美しいものは必ず破滅する」という思想が貫かれている。須永さんの作品も破滅はするんですが、最後まで美しい。破滅自体が美しい。呉作品はその美しさが終わりを迎える。衰えない美しさはない、という世界観です。
益岡 
須永作品の破滅は、明るい破滅ですよね。
ティーヌ 
破滅のスピードが速いよね。テキストが短いこともあるけど、すっと骨になったりとか(笑)
益岡 
先生はいつも「自分には長いものは書けない」と断言されてましたから、作意があるわけではないんでしょうけどね(笑)
 
というか、読者が耐えられないと思いますね。この短さだから読めるところがあると思う。須永さんは「百人のためのエンターテイナー」を自称していたわけですが、この短さはある種のサービスだったんだと思いますよ。一般人が旧字旧仮名、博覧強記の難解な誌面に耐えられるのは数頁だろうと、そういう意識はもっていたんじゃないかと思います。だからほとんど短篇しかない!(笑)
益岡 
でも、だからこそ、これから受けるんじゃないかとも僕は思っているんですよね。
ヘイデン 
腐女子、読むべきですよ。
美夜日 
tiktok時代の腐女子にいいんじゃない?
益岡 
濃密な世界がこれだけ短くまとまっていて、慣れれば非常に短時間で消費できるというのは、極めて現代的なメディアに仕上がっていると思う。BLという観点からも、今後、最重要格の作家としてとらえられる可能性があると思いますね。初読時、僕はどうしても「幻想文学」という枠組みにとらわれながら読んでいたわけですけど、今回、BLという文脈で読み解いてみると、現代に書かれていれば発表する度に「問題作だ!」と話題になるであろうタイプのものが、この一冊には山ほど入っている。
 
須永さんの創作法には二次創作に近いところがあると思います。元ネタが日本や中国や西洋の古典だというだけ。そうした部分は、現代に受け入れられる要素かな、と思います。
近藤銀河(以降、近藤) 
「天使Ⅲ」や、この本には収録されていないんですけど、「蝙蝠男」はまさに「バットマン」の二次創作ですよね。
 
でも、結局、こうした形式のものは一部の人しかエンジョイできない。
益岡 (笑)
 
だってさ、BLにしたってラノベ(ライトノベル)にしたって……ジャニーズの舞台なんかもそうかもしれないけれど、それぞれの文法があるわけじゃないですか。先行する文脈を理解している人のためのエンターテインメントですよ。そこに入って行くのは、一般の人にはなかなか難しいところがある。そういう観点から見ても、須永さんの小説というのはそうした先行する文脈というか、コンテクストを理解するのに非常にコストがかかるものですから、なかなか広範な読者を獲得していくことは難しい。
ただ、須永さんは潔く、「私はあなたたちにしか読ませたくない、以上」という姿勢を貫いた。「百人のためのエンターテインメント」というのはそういうことだと思う。
近藤 
でも、読者層はこれから広がるような気が私もしています。この本の「編者の言葉」の中で山尾悠子さんが「今では広く見慣れた世界観である須永朝彦独自の〈冥府よりの誘惑者、あるいは暗い美青年としての吸血鬼〉といった造形は須永以前には存在しなかった」と綴っている。この「今では広く見慣れた世界観」についての詳しい言及はないので、ここはもう少し、深く考えていくべき部分だとは思うんですが、ざっと思いつくままにあげても、BLやpixivのような投稿サイトで表現されているような世界観はそれにあたると思うんですね。そういう世界観での創作をしている人や愛好している人たちが、「須永朝彦以前には存在しなかった須永朝彦的世界観」であると意識して須永朝彦を再発見していくというフェーズは、これから本格的にやってくるのではないかという予感がある。
二〇二二年五月号の「文學界」で「幻想の短歌」特集が組まれているんですが、この中で川野芽生さんが、幻想的な世界観を愛していることに加えて、女性であり、クィアであることを意識すると現実ではない、幻想の世界こそが自分にとっての本当の世界なのではないかという思いに駆られるのだけれど、そこへの帰り方を忘れてしまった──といったようなことを書いている。この感覚はまさに須永朝彦的なものであると思うし、中井英夫なども終世持ち続けた違和感だったのだと思うんですね。そうした感覚を若い歌人である川野さんが明文化していることを考えると、「須永的なるもの」が広く受け入れられているという状況が見えて来る。その地平においては須永作品が多くの読者を獲得する可能性もまた、広がっているんじゃないかと思います。
 
読者層の広がりでいえば、なんといってもインターネットが果たす役割が大きいと思います。たとえば、「悪霊の館」の冒頭に「モンデーグの河畔」という語句が出てきますよね。この「モンデーグ」という場所がわからなかったとすると、昔の人は「わからないけど、多分ヨーロッパのどこかだろう」くらいの認識で処理する。今は、「Google先生、モンデーグって何?」と即座に調べてしまえる。現在の読者にはあたりまえになっている生活環境の変化は、須永作品が広がる要因になりうると思います。
須永さんは先ほど申し上げた通り、自分自身で読者層を狭めて行ったようなところがあります。誰も知らないような単語、あえて選ばれる旧字体、正仮名遣い……須永作品の持つ博物誌的な面白さは、南方熊楠にも通じると思うのですが、今や、南方熊楠しか知らなかったようなことをすべてGoogle先生が瞬時に教えてくれる時代がやってきている。
そうした部分を、須永さんはしかし、亡くなるまで意識できなかったことと思います。アナログな世界の方なので……
私の修士論文は、安西冬衛という詩人なのですが、彼は奈良県に生まれ、大連に渡り、戦後は大阪の堺に移って、堺市史を書くことになるのですが、この詩人と須永朝彦は非常によく似ている。わけわからない片仮名、わけわからない漢字(笑)……須永さんはそうした近しさもあって安西の愛読者だったわけですが……こういう文章が自然に生まれて行った理由は、彼の暮らした「大連」という土地にあると思います。当時の大連は様々な国の人が行き交う国際都市だったわけです。日本語、中国語──中国語も様々な地方の言葉が混在していたでしょう。さらにロシア語も飛び交う。大陸に渡った詩人たちの中でその「多国籍性」が花開いたというのは極めて自然なことでした。近藤東の「上海」もそうですが、安西冬衛の「大連」もまた、彼の詩作に大きな影響を与えたと思います。まさに「エキゾチック」。郷ひろみじゃないけれど、「エキゾチック・ジャパン」な文学が花開いていたわけです。
益岡 (笑)
 
そうした多国籍な文学に出会った時に、インターネットの無い時代の読者がとるべき態度は二つです。ひとつは、「わからなくてもいいや」とエンジョイするタイプ。もうひとつは、ちゃんと調べる人。すべて調べて、作者と世界観を共有した上で味わおうとするタイプです。それ以外の人には、もう関係のないものになってしまう。それがかつての読書環境だった。
でも、今は違う。昔は博識だというだけで尊敬されました。その知識のハードルも非常に低かった。渡航経験のある人などわずかでしたから、「ドイツではソーセージがおいしい」程度の知識でもみんな感心してくれた。今は、そんなことでは認められないわけです。その程度の知識ならば誰でも得られる時代ですからね。
さらに言えば、「わからなくてもエンジョイできる」ひとたちの層は、確実に広がってきている。我々は「わからない」に対する耐性をこの半世紀ほどでかなり身につけたと思うんですね。かつての私たちは、街中で、まったくわからない国の料理を出す店を見つけたとして、なかなか入ってみようとはしなかったと思う。舶来のものは、ある程度の階級の人、お上品な人たちの食べ物だと思われていた時代も長い。でも、今は、そんなに抵抗がなくなっているでしょう? そういう「わからない」ものも「食べてみようかな」と思うのではないでしょうか。技術だけでなく、私たち、生身の人間自体も新しくなった。そう考えると、やっと、須永朝彦文学を理解できる下地が出来て来たんじゃないかとも思える(笑)
益岡 
確かにそうかもしれない。と、同時に……須永先生自身は、その状況に追いついていけなくなってしまったのかもしれないですね。自作と、自作が受け入れられるようになりつつある状況とのあいだを上手く埋めることが出来なかったのかもしれない。
先ほど、銀河さんがあげてくれた「蝙蝠男」は、国書刊行会から二〇一〇年に刊行された『天使』に収録されているのですが、この本は、須永作品のトレードマークともいえる旧字旧仮名遣いをあえて外して、いわば「読みやすい編集」に徹した一冊なんですね。先生は、これ、ちょっと嫌だったみたいなの(笑)
これが出たときにサインをもらいに行ったんですけど、須永先生はね、いつも金や銀のペンでサインをしてくださるんですよ。サインの色も、装丁に合った色を選ばれていたみたいなのね。常にそういう美意識を持っていらっしゃった。
でも、この本を持って行った時には、先生、ひとこと、「あら、こんなものを」って仰って……
一同 (笑)
益岡 
そこらへんにあるペンでさらさらっとサインなさった(笑)
美夜日 
思い入れが違うんだ(笑)
益岡 
まあ、わかんないけどね。これが出たことは、それはそれで嬉しかったと思うんですよ。千野帽子さんが解説を書いて、三浦しをんさんが帯を書いてね。三浦さんとはそれが縁でおつきあいが続いていたようですし、先生の作品の可能性を広げた一冊であることは間違いない。でも、先生自身は、あまりピンと来ていなかったんだと思います。
 
でもね、須永作品を読んだことない人にお勧めするなら、断然、こちらの本です!
益岡 
そうね。確かに読みやすいからね、こっちの方が。ただ、選集として、作品面でのベストセレクションがどちらかと問われれば、僕は迷いなく、今回の山尾悠子セレクションを採りますね。なんかね、「あ、僕の好きなのみんな入ってる!」っていう喜びがあった。
ティーヌ (笑)
美夜日 
自分が選んだみたいな(笑)
益岡 
なんか上から目線みたいになって恐縮なんですが、「さすがね、山尾さん」みたいな。
一同 (笑)


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