4 孤独と退屈の正体 ~対話を終わらせないために~
自分はアクティブなほうだと自負するが、それでも退屈を感じている時間はある。そりゃあ予定がなくて家から出ない日もあるし、家での過ごし方が絶望的に下手なのもあるかもしれない。色々相まって孤独と退屈は感じやすい性格だ。いや逆に感じやすいからこそアクティブなのかもしれない。そうしないとすぐにネガティブなほうに陥ってしまうから。マグロみたい。
そういう時に案じるようにしている歌詞がある。
とてもシンプルでストレートなこのフレーズが好き、というかはものすごく納得している。
人は”最高な時”をリアルタイムでは観測できない。その渦中にいる人間は、夢中になったまま、あるいはその出来事を特別と認識できないまま過ごし”最高な時”だという自覚をするのが難しい。
ではいつ気づくのか。「気づいた時には終わっているけど」とあるように、”最高な時”が終わった時である。あるいは、気づいてしまった瞬間に終わってしまうものかもしれない。
楽しかった日の帰りの電車、写真フォルダを見返した時、何もない・何ともない平常を過ごしている時にようやく、リアルタイムの自分自身と比較されて、「あの時は楽しかったな」「あの頃は輝いていたな」と、相対的に”最高な時”だったことをようやく正確に観測できる。
そしてその際に、リアルタイムの自分自身に対して相対的に抱くネガティブな感情が孤独と退屈の正体と考えている。
すなわち孤独と退屈は、"最高な時"を観測するのに必要な代償なのかもしれない。
いや、そう考える方が精神衛生上良いと思うから、そう言い聞かせている節もある。
この理屈に則ると、孤独と退屈を感じない人は”最高な時“を正確に観測できないのではないだろうか。
理想とする状況に四六時中いれたら幸せなように感じるかもしれない。しかし孤独や退屈、他にも不安といったネガティブな感情を知っている人こそ、“最高な時”を確実に観測できるセンサーが感覚的・相対的に研ぎ澄まされているはず。
あとこの歌詞の解釈としてもうひとつ。孤独と退屈に対する諦めもある。
最高な時は訪れてもリアルタイムではどうせ気付けないんだから、人は完全に気持ちが満たされることはない。最高な時を経験すればするほど、反動として孤独と退屈も訪れる。だから、この瞬間に抱くネガティブな感情もどうせ拭い取れない。
最高な時とそうでない時、そこに揺れる感情の渦中にいる。
そう割り切って諦めることと、この揺らぎに人間味を見出せるようにしていきたい。
この内容はちょうど数日の間、退屈が続いた時に思いついた。
そして文章を考えている時に待ちに待っていたお誘いの連絡が来た。
もう少しの間自分は揺らげそう。
だから今日はビールでも飲んで忘れよう。
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