人様のブログのコメント欄に居候3

どういうわけか
人様のブログのコメント欄に
せっせと書き込んでは投稿している
管理人はあきれてか未承認状態
公開されなくてもOK
それならnoteに残しとこうか
そう思って始めたのがこれ
日記のようで日記出ない
落書雑文そんなもんだろう
いい文章を書いているわけでもなく
意味のあることを書き残しているわけでもなお
いい加減なジジイの
いい加減な恐らく多分ん駄文
読んでもらおうと書いているわけでもない
いい加減なもの
そういうこと

2019-01-28
プラモデルなんか

記憶にあるのは小4で長崎から福岡に移ってからのこと
外で遊ぶことが多かったのでプラモデルなんか
まったく興味なかった
模型飛行機はつくって飛ばして遊んだことはある
マナスルとかいう機種?を覚えている
好きな人はそこからラジコンに入っていくのだろうが
うちは貧乏なので買うお金がない
別にそれでよかった
欲しいものと言えば玩具のピストルや拳銃の類
父が洋画が好きでよく観に行ってたのと
当時TVではアメリカのTV番
それも西部劇が多かった
「拳銃無宿」など好きだった
スティーブ・マックィーンが出てた
ショットガンの銃身を短く切った独特の奴
憧れたね
お正月のお年玉で弾が飛び出る拳銃買って
ホルダーを段ボールでつくったからね
紐まで付けて足に巻いて固定する奴
早打ちの練習もしてたね
アメリカじゃ誰が早いとか
毎日早撃ちの練習
子どもだったよ
映画は日曜になると当時は東映の時代劇
同時に西部劇なんかアメリカの番組観てたから
面白いよね
オモチャで欲しいものはその位だったかな
まあとにかく貧乏だったから
お金がかかるものは買えないわけだし
そんな高望みすることなかった

抽選に当たって1万円

そうそう
中学生になってからのことかな
繁華街の抽選券・・・年末大売り出しだったんだろう
一等賞が当たって金一封1万円だったわけ
当時は値打ちあるんだよ1万円って
だから何に使うか迷っよ
百科事典にするか
コーヒー沸かすサイフォンにするか
私のコ-トにするか
普段お金ないから
いざ買えるとなると迷うよね
結局私の半コートになった
そこで運使い果たしたんじゃない?
そのあといいことなかったから
小学生に時
将来の夢をテーマに絵を描く授業があった
覚えてるよ
パイロットだった
飛行機の絵を描いたよ
あとサーカスの空中ブランコやりたかった
それを絵に描こうと思ったけど
難しいので止めて飛行機描いたさ
こんないい加減さだから
何にもなれなかったのだろうね

2019-01-28
汚水工場が遊び場

福岡に引っ越しする前のことだからはっきり覚えている
私の記憶はそれ以前のことはよく覚えていない
うちの家といっても市の日雇い労働者のための宿舎で
父がその管理人ということで宿舎の端に一部屋もらい
そこに当時は家族5人が暮らしていた
父が管理人をしていたいきさつは聞いたいないが
恐らく日雇いの組合の活動家だったので管理も任されていたのでではないか
その宿舎のすぐ近くに多分汚水処理工場だったと思うが広い敷地に建物と空き地があった
一応門はあったようだがいつも開いていて
広い空き地があるから子どもの格好の遊び場になっていた
入るのも自由遊ぶのも自由
そんなこと今では考えられないと思うが
当時はそうだったのだから時代の違いとしか言えない
建物の中にはさすがに入ることは無かった
というか今思えばそこで働いている人を見かけた覚えがないのだが
それはどういうことだろうね
ただ記憶がないということだろうか

ヤゴ捕りと彫刻?と

門を入って左側に建物があって
まっすぐ空き地が広がっててその奥に水槽があった
かなり深い水槽で水は下の方にしか溜まっていない
そこで長い柄の網でヤゴをすくい取るのだが
水槽の端をしっかり持って長い柄を伸ばして
やっと水に届くかどうかという深さ
手を伸ばしすぎてバランスを崩し水槽の中に落ちたことも
あったようななかったような
その記憶もあいまい
木の端くれとかいろんなものも入ってたようだ
その水槽でヤゴをとってたということしか覚えてない
捕ったヤゴがトンボになるまで育てたとか
そんなことやったかどうかも覚えていない
それ位したら少しは意味があるだろうけど
覚えていないから仕方がない
後に福岡に引っ越してボウフラを飼って?
蚊になるまで観察したことがあったが
その観察をどうしたかは覚えていない
記録にして発表したかどうか
覚えていないところをみると
これも何もせずに終わったのだろう
こうしてみると今まで何もやり上げていない結果が
今の私になったのかもしれないね
さて汚水処理場の思い出と言えばもうひとつある
多分そこで出来た物・・・つまり汚水で出来たと思うが
真っ白い石膏のようなかたまりが手に入った
それを削っていろんな形にするのだが
小さい子らからリクエストがあってそれに応えていろいろつくっていた
でもそれもいい加減なものだったと思う
彫刻などその後まったく興味なかったし
けっこう自慢げに作っていたのを覚えているが
そこで彫刻なりの才能があったならね

後味が悪い思い出
そうそう
引っ越す前のことだと書いた
よく覚えているのはある事件があったから
友だちと凧あげして遊んでいたと思う
そしたらどこの子かが来ていたずらするから
やめろとこっちも石を投げて応戦した
その石が相手の顔だか頭だかに当たって
泣いて帰った
こっちは相手が手を出してきたのだからと悪いことしたとは思っていない
すると後になってその親がうちに来たのか
翌日だかに母に連れられてその家に行って謝ることになった
私としては心外だがついていかざるを得なかった
悪いのは向こうだと心の中ではずっといってたが
少し後味の悪い長崎からの旅立ちとなった
今思い返せばそこはもう使われていなかったのかもしれない
誰もいないというのもおかしいし
水槽がゴミだらけで水も少なかったし
出入りは自由だったし
出入りする車の記憶もないし
きっとそうだったんだろうと今思った

この汚水工場跡地?の横を北に行くと広い河口になる
海がぐ近くになり海の匂いがした
そこにポンプ小屋があって老夫婦が管理していた
そこの話はまた機会があれば

(校正無し誤字脱字御免)

藤川一郎
京都市北区紫竹北大門町37 葵荘17号
075-493-4676


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