今抱く、私の中の『デザイン』の定義
私にとっての『デザイン』って何?
という自分の問いの解像度をあげるべく、過去の記事を読み返してみた。
当時の私は、
『サービスを生み出すその瞬間から届けるところまで、想いを持って生み出し、それを必要としている人に届けること』
という定義を置いていたようだ。
その根底にあるのは、このときにも書いている
『デザイン=人と人をつなげるもの』
という考えからだ。
『デザイン=人と人をつなげるもの』について
『つなげる』とは?
好きなもの同士(人と人、商品やサービスと人)が出会って交わるもの。
それによって、相互に幸せを感じられること。相互に心が豊かになること。
それは、
「好き」の気持ちは人の心を豊かにし、幸せにする
という考えからきている。
そして、
好きなものを「好き」って言える世界=「ひとり」を大切にする世界をつくる
という私の願いにもつながっている。
少し変化した、今私が想う『デザイン』の定義
サービスが生まれるその想いに寄り添い形にすること
『サービスを生み出すその瞬間から届けるところまで』
これを読んだとき、なんだか少し違和感を感じ、今の私の中の定義が変わっていることに気づいた。
まず、しっくりこないのは「生み出す瞬間」という部分。
サービスを生み出すその背景には、個々人の価値観や信念、想いなどがあると思う。
けれど、これはひとりひとり違うもので、他の人が生み出せるものではないのではないか。
それが、今の考え。
だから私は、「生み出す」その人の想いに寄り添って、
言葉にならない想い
形にならないイメージを
見て聞いて触って、分かるものに変換してあげる。
そのお手伝いをしたいと思う。
それがまず、サービスとデザインが交わるはじめの第一歩だ。
『デザイン=思いやり』理解の上に成り立つ、届く伝わる形づくり
これは、生み出すその瞬間だけに留まらず、サービスを世の中に届ける過程でも同じ。
例えば、どんな形状にすればいいか。
そこから、何を感じて欲しいのか。
どの手段をもちいれば価値を届けられるのか。
想いが具現化したサービスを、より届くように、より伝わるように。
言葉とイメージで分かるものにする。
そして、
生み出すときも届けるときも、思考はつくり手側だけでなく、共感やニーズをもつ「届けたい相手」のところにも飛んでいく。
つくり手の想いを理解し、届けたい相手のことを理解し。
どちらも理解できないと、一方通行になってしまう。
だから、
どちらのことも理解しないといけないし、理解したいと思っている。
そうすることで、
分かる言葉で、理解できる形で、
サービスを必要な人へ届けることができると思う。
これが、私にとっての『デザイン』の定義ふたつめ。
『デザイン=思いやり』
ということだ。
思いやりをもって、人をみつめ、観察し、傾聴し、知ること。
思いやりをもって、伝わる、見える、届く形にすること。
『育てる=好きの気持ちを育む』デザインを
違和感を感じたふたつめは、
「届けるところまで」というところ。
サービスを作ったら届けて終わり。
そんなばっさりは寂しいじゃないか。
制作会社にいたときは確かに、要件を聞いて、つくって、終わり。
そんな繰り返しで。
でもなんだか、日々をこなすような寂しさも感じていて。
だから私は、その後も一緒に歩んでいける良きパートナーでありたいと思う。
共に育てていく。
つくり手と届けたい相手、双方がもっと好き同士になってくれたら、それはきっとすごく幸せ。
そこからまた「好きの輪」が広がって、「好き」って語れる幸せな世界が広がるともっと幸せ。
そんな風に、『育てる』その過程でも、きっと寄り添っていけると思う。
まとめ
以前抱いていた、私の中のデザインの定義。
『サービスを生み出すその瞬間から届けるところまで、想いを持って生み出し、それを必要としている人に届けること』
それは、半年という期間を経て、今こんな風に変わった。
『言葉にならない想いや形にならないイメージを、思いやりをもって人に寄り添い、見て聞いて触って分かるものに変換すること。
その先で、「好き」の気持ちが出会い、育まれ、心が豊かで幸せな世界が生まれること』
思いやりをもって寄り添うとは:
人をみつめ、観察し、傾聴し、理解すること。
伝わる、見える、届く形にすること。
なんだかまだ、ふわっとしているものを感じるけれど、
今書ける、私の中の『デザイン』の定義。
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