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首無しお化けの分詞構文

この記事を読めば、分詞構文がはっきり判ります。どうぞ最後までお付き合いください。

高校の頃、分詞構文を習ったり文法書を読んだりしたとき、だから何なんだ?という、なんとはなしの引っ掛かりが私にはあった。
確かに、テスト問題を解いたり、日本語に訳すには必要なのかもしないが、その必要がないネイティブにはこの分詞構文は何のために存在しているのだろうか。と不思議に思っていた。お化けのような漠然とした意味不明さ。その存在に不気味さを感じないでしょうか。

分詞構文の理由について、各書籍に以下のように記されています。
「分詞構文はいわば「物語モード」、「分詞構文はお話に勢いを与えるために用いられるテクニック」」 ハートで感じる英文法 大西泰斗/ポール・マクベイ著p83
「英語の表現で重要なことは、メリハリをつけて表現すると言うことです。分詞構文はまさにこのためにあります」 英文法の正体 濱田英人著p221

さらに後者のp222には「2つの伝えたい情報がある場合に中心となる事柄がS+Vで表現され、中心でない情報が背景として分詞句で表現されると言うことになります」とあり、前者のp84にも同様の記述があります。
つまり、並行的な主語の動作、動作の同時性の表現。これが分詞構文の本質、存在意義でしょう。

一方
松本隆著『なぜ、英語では「虹は出ない」のか?』第一章第一節はじめ、各種文法書には、英語には主語が絶対大事とといている。逆にいうと、日本語は主語が必ずしも必要ではないから、英語では重要だよと強調しているのである。

であるのに分詞構文には主語がない。

主語が大事だとする英語の中で、主語がなく、何が動いているのかわからないというのはネイティブにとって不自然で引っかかるところなのではないだろうか。
だからこそ、その直後の主文で動作主が出てきて初めてストンとスッキリ腑に落ちる。
→それが物語モード、メリハリをつけて表現すると言うことではあるまいか。

また同時に
わざと主語をなくすことで、主語の同時性を表しているのでは?頭が一つなのに二つのことをやっているよみたいな。お化けじゃ無くてマンガのようにかな。臨場感を付ける。
「分詞構文の意味上の主語は主文の主語(S)と一致するのが原則である」新・英語の構文構文150高梨健吉著3訂新版p204
日本語は主語がなくても通じることが多い。だから、日本人の私には、分詞構文の存在理由がわからなかった。あえて重要視する必要はないだろうと。
一方、英語では動作主がない事はおかしいからこそ、分詞構文を文法事項にするほど重要なのではないだろうか。動いているものが何だか判らないというのはネイティブにとって不自然なはずだからです。

次に分詞構文で不思議なのは、接続詞がないのに日本語訳に接続詞を入れること。

まったく、いったい接続詞はどこにあるんだい?どこにもないじゃないか

「動詞」から始める英文法p47田中茂範著によると、「分詞構文それ自体には「理由」「条件」「時」等の意味は含まれておらず、・・・」とある。
ということはやはり、接続詞が無いのは、それは見えないからではなくて、それはないからないのだ(完了形の真意と違って←リンク先後半の結論)。
それではなぜ分詞構文に接続詞の用法があるのだ?
それは日本人だから。結論を最後に持っていく日本語を母語としている日本人だから、本来無いはずの接続詞を、日本語に変換するときに入れるのではないのか?
つまり、色々な状況証拠がある中で、最後のオチに持っていくためには、「そして」、「だから」、「なぜならば」等々の接続詞が無いと、最後の結論に収束しづらい。
日本語は、そのような言語構造を持っているから、存在しない接続詞を、訳す時に入れるのではなかろうか。無いと不自然だから。
おそらく、ネイティブや、ネイティブと遜色ない日本人でさえも、接続詞を入れて理解はしていないのではあるまいか?
はたして、ネイティブの文法書には、分詞構文の用法が載っていて、日本語英文法と同じように接続詞を添えて教えているのだろうか。

結局、ネイティブにとって分詞構文の重要性(不自然さ)は主語がないこと。一方、日本人にとって分詞構文の重要性(不自然さ)は接続詞がないこと。それが私が感じた違和感なのだろう。


Present form, Past formという世界認識の違い(←詳細はクリック)によって、完了形および仮定法という日本語にはない不可解な霊が生まれた。
英語は結論を最初にいい、日本語では落語のようにオチを一番最後に持ってくる。この構造上の違いの深い谷から生まれる妖怪を、時間がある時に捕まえたいと思う。

ここまで読んでくれてありがとう。
お疲れ様でした。
あなたに幸あれ!


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