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~第28回 ~「氷川神と歴史の話」

武蔵一宮氷川神社は、社記によると第5代孝昭天皇(紀元前475 ~前393)の御代3年4月未の日の御創立と伝えられます。
その後、第12代景行天皇(71 ~130)の御代には日本武尊が東夷鎮定の祈願をなされたと伝わっており、第13代成務天皇(131~190)の御代には出雲族の兄多毛比命が朝廷の命により武蔵国造となって当社を奉崇し、善政を敷かれてから益々当社の神威は輝き格式を高めたと伝わります。

そのような歴史を有する当社ですが、公式文献上初めて登場するのは天平神護2年(766)。
『新抄格勅符抄』に「氷川神に封戸三戸を寄進する」旨の記述があり、武蔵国では唯一の記載でした。これが氷川神社の最古の記録です。
平安時代、延長5年(927年)に編纂された『延喜式神名帳』には「氷川神社 名神大 新嘗 月次」とあり、この頃には武蔵国最大の神社であったことがうかがえます。

さてこの平安時代ですが、一つの大きな戦がありました。
当時、氷川神社を代々祀ってきた足立郡司武蔵武芝が、天慶2年(939年)に中央から武蔵国へ新たに赴任した武蔵権守・興世王、源経基と対立し、その調停を平将門が行いました。
この調停が遠因となり生じたのが、日本史上に名を残す、貴族による律令国家衰退と武士のおこりを示す戦として知られる「平将門の乱(承平天慶の乱)」です。

どの時代にあっても氷川神社は日本の歴史を見守ってきたのです。

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〔 Word : Keiko Yamasaki Photo : Hiroyuki Kudoh 〕

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