~第171回~「料亭文化と氷川神社」
武蔵一宮氷川神社の境内にある盆栽鉢をご存じでしょうか。 これは料亭「八重垣」にあった盆栽鉢。
近代、大宮に花開いた料亭文化の名残です。 武蔵一宮氷川神社と大宮公園が位置する地域は、芝川の浸食によって生まれた低地を望む大宮台地の縁辺部にあたります。
また現在の大宮第二・第三公園が位置するあたりは見沼と呼ばれる広大な湖沼がありました。
見沼は豊富な水量を誇り、「神沼」や「御沼」とも讃えられる湖沼でした。 近代になると、国が西欧諸国に倣って公園を設置するべく、候補地の選定を明治6年の太政官布告により各府県に対して求めます。
その結果、明治18年(1885)9月、氷川神社の裏山であった旧社領地に「氷川公園」が開園しました。(その後、昭和23年に埼玉県立大宮公園に名称変更) そうして開園した氷川公園ですが、3分の2以上の区画が旅館料亭等に貸し付けられていました。
館内に鉱泉を専有していた萬松楼をはじめ、明治35年(1902)には、八重垣、石州楼、三橋亭を加えた四軒の料亭が公園内にあったそうです。
また当時の文人たちも大宮を訪れ、その当時の様子を記すようになります。 例えば正岡子規は「ふみこんで帰る道なし萩の原」と詠んでいます。 これは、子規が学生の頃に萬松楼に滞在した際に詠んだ句です。 さらに明治41年(1908)、幼い頃の昭和天皇が学習院初等科の遠足で大宮公園を訪れております。
その際は松茸狩りを楽しまれたそうで、当時の様子を伝える写真には「温泉・御旅館・御料理 八重垣」「生徒諸君休憩所」の文字が見えます。 料亭文化が花開いた氷川公園ですが、昭和4年(1929)になると公園内でのこうした営業は廃止され、家族の為の健康やスポーツの公園へと整備され、現在の姿になります。 武蔵一宮氷川神社には、失われた様々な大宮の歴史文化が残っております。
〔 Word : Keiko Yamasaki Photo : Hiroyuki Kudoh 〕
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