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『有害な男らしさ』と劣等感。

道端で突然、老人に杖で殴られたことがある。娘と一緒でなければ、とっ捕まえて警察に突き出しているところだが、子供に危害を加えられたら困ると思いグッと我慢した。今でもその道を通るたびにあの老人のことを思い出し、涙が出そうになったり、怒りが抑えられなくなったりする。

信じられないという方もいると思うが、こういう人はどこにでもいる。そしてそれは必ず男性である。このような経験を何度も何度も繰り返し、男性が苦手だと感じるようになった。

老人男性の行動は、以前にも書いた通り『有害な男らしさ』、そして『特権意識』から来ている。性差別構造の強い日本社会では、男性が特権的立場にいると思い込んでいる人が多い。

『有害な男らしさ』という言葉は、社会の中で男らしさとして当然視、賞賛され、男性が無自覚のうちにそうなるように仕向けられる特性の中に、暴力や性差別的な言動につながったり、自分自身を大切にできなくさせたりする有害な性質が埋め込まれている、という指摘をしています。1980年アメリカの心理学者が提唱したものだそうです。
 まさに私が男性に対して「苦手」だと感じる部分が、『有害な男らしさ』でした。乱暴な言葉遣い、女性の話に耳を傾けない、女性の人格を軽んじるなどのマンスプレイニングです。しかしこれは男性が生まれ持ったものではなく、学校や家庭などのあらゆる場所で「男なら」「男だったら」「男であれ」などという刷り込みに近いものから形成されたのだといいます。性差別構造が強い社会の中で、男性一人ひとりの個性を無視して形成されていったという話でした。

高齢男性の「男性の方が優位である」という思い込みを変えさせることは容易ではない。『これからの男の子たちへ』(太田啓子・著)にも記されている通り、「彼らが退場するのを待つしかない」のだ、と私も思う。

しかし、しかしだ。男性というだけで他者に乱暴したり、乱暴な言葉遣いをすることをなぜ「よし」と思えるのだ。それが人として間違っているとなぜ気づけないのだろうか。教育の違いだとか、環境の違いだとかが関係していることはわかる。けれど時代と共に価値観は変わっていくのだ。それがいつまでもアップデートされないというのはあまりに滑稽だ。

例えばおよそ30年前までは携帯電話は大きな肩掛けのものだった。けれど今は一人ひとり小さな「スマートフォン」を持つのが当たり前になっている。時代の変化に流されて、よりよいものを求めていったのだ。人間の進化ともいえる。
何が言いたいかというと、つまりあの老人男性は何ひとつ進化せず、どでかい肩掛けの携帯電話を持っているようなものだ。平野ノラなのか。それもうほぼ使えないだろ、と教えてあげたい。

ここで前回のnoteで書いたのと同じく、またしても「男女は平等である」と言いながら「有害な男らしさを持つ男性は滑稽である」という感情が生まれる。苦しい。まっとうに生きているだけなのに自己矛盾を与えてくる世界が苦しい。けれど声をあげなければ何も変わらない。未来を担う子供たちに負担をかけてはいけない。少しでも何かしら行動に移さなければと思う。

この話を夫に話すと「男女平等が受け入れられない」という回答が返ってきた。彼は私の考え方ややりたいことに理解を示していると思っていたので、驚いた。更に彼は、仕事を外注するときにコミュニケーションがとりやすいという理由で女性を選択するような人である。なぜだ。
曰く、「女性が有能であることや、男女が平等だということは理解している。けれどもしも男女が平等の世界に行った場合、自分は女性よりも能力が下のように感じる。その世界に行くのが怖い。つまり、僕も『有害な男らしさ』を持ち合わせているんだと思う」。

なんてことだ。また別角度の問題が出てきてしまった。夫のような消極的な『有害な男らしさ』をどうやって解消したらいいのかわからない。また、私のエゴでその点を解消させるのもいかなるものかという気持ちもある。なぜなら人間はどんなに「比べてはいけない」と言われても、比べてしまうものだし、優位に立ちたいものだから。どうしたらいいのか誰か教えてほしい。

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長くなってしまったので今日はここまで。また書く。

『ルッキズムを手放した話。』

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