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詩と書がアートになる時Ⅱハシグチリンタロウについて/一日一微発見356

ハシグチリンタロウ君に会ったのは3年ぐらい前だろうか。京都で毎年やっている「アーティストアートフェア」の京都新聞の地下工場跡会場に行ったら、奥の方に映像の前で本人が「書いて/描いて」いた。

音楽(パンク)を聴きながら、ぼろぞうきんに墨をつけて、猛然と「書いて/描いて」行く。

圧巻、痛快だった。

それを、伝説の井上有一のアトリエや白髪一雄の「足で描く」映像の現代版と言うのはたやすいが、まわりにはられているコピーは、どうら彼が日常的に書きつづっているノートのコピーのようであり、そんな邪念を吹き飛ばす。

とにかく「高速」なのだ。

前回もあげた白川静の『漢字百話』の中で、白川は、書とは「札」に書きつけて土に埋める呪言のもの、魔を祓うものと書いていた。

そうだろう。
甲骨・金文の占いや呪力の形を封じこめ、制度化したのが漢字ならば、それを再び身体の中で蘇生させ、解きはなつ儀式が書というものにちがいない。

書は呪力をこめるものなのだ。
僕はそう思うので、書を拡張し、単純に、絵画化、アートとしてあつかう傾向には抵抗感がある。それは、ヌケガラだ。書の始原の力が損なわれると思うからである。

しかし、ハシグチリンタロウ君においてはどうだろう?

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