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好きも嫌いもあっていい。の巻。

糸井重里さんが、任天堂の山内社長にインタビューされた時のエピソードを書いておられた。

糸井さんが「経営がお好きなんですねぇ」と言ったところ、山内社長は「好きなんやない。得意なんや」とお返しになった、というのだ。

さらに「どちらかと言えば嫌いなくらい」「好きで経営なんかされたら社員がかなわんで」とたたみかけられた、と。


これを読んで、わたしはなぜかほっとした。
ああ、それでいいのか、と安心していた。


好きなものを見つけてやりなさい、とよく言われる。
好きなことを書け、好きなことをやれ、と。
もちろん、その通りではあるのだけれど、好きと嫌いは表裏一体というか。


これは親も子供も恋人も友人も一緒かもしれぬ。

100パーセントの愛、というものは存在しないか。


我がお師匠が勧めてくれた本「奇跡のコース」の心理ワークも似たような感じだ。


一巻は3ページでギブアップしたのだが、2巻のワークの太字だけは、涙が出るくらいとても気に入った。おかしな本である。

「この部屋の中で私が見ているものには、何の意味もありません」

この一文を読んだ時も、わたしはとてもほっとして安心したのだ。

すべてのものは、ただそこに存在しているだけで、わたしに対する過剰な好意も悪意も存在しないのだ、と。
すべての悩ましい事象は、わたしの頭が作り出しているのだ、と。

世界はただ、平和であったのだ。


東洋思想では「中庸が良し」とされるらしい。
喜怒哀楽も、過ぎると心身を損ねるというのだ。薬膳を習いに行ったときに、講師が言っておられた。
「喜」は良いのでは、と問えば「嬉しくてスキップしてコケてねんざする、ということがある」と教えてくれた。


仏教でも、悟りをひらくとただただ世界はひらたく平和であるらしい。


それにしても、「仏教」と聞くと安心する。「奇跡のコース」だの「東洋思想」だの言われると、なんか胡散臭いと感じてしまう。

これもわたしの持つ偏見で、思想に意味はないのだろう。

だっておんなじこと言うてるもんな。


今回のドーパミン

●ものごとには100パーセントはない
●好きか嫌いかで仕事しなくてもいい
●親しみ深いものが言うと好ましく感じる
●イチカは昨日もたらふく酒を飲んだ

読んでくれてありがとう。

ずっと罪悪感を抱えて、自己肯定感ひっくい人生を送ってきたんですけれど、いまは応援していただくことの修行をしています。よかったらサポートお願いします。いただいたサポートで土偶や土器の博物館に行きます。