見出し画像

『星の約束』a-1.スピカ

☆前回までのストーリー☆


時子がプラネタリウムの重い扉を開けると、なかにはすでに数人の客がいた。
子ども連れや高齢の男性、大学生らしいカップルがお互い間隔をあけて座っている。
座席は部屋の中央にある黒い機械を取り囲むようにして、円状に幾重にも並んでいた。

そのバームクーヘンのような並びの座席のひとつに腰を下ろし、隣の座席にコートとカバンを置いた後、座席に深く腰掛ける。
思ったよりも良い座り心地に満足感を覚え、
身体をより深く沈めていくと、リクライニングシートになっている背もたれが自然に後ろへと倒れた。


そのまま座席に身体を預け、軽く目を閉じる。
そうすると外の世界から遮断され、自分一人だけが存在している感じがした。

時子はふと、兄のことを思い出した。
2つ年上の兄・幸人がオーストリアに行ってから、もう3年になる。
そのあいだ何度か母が電話をしていたが、時子は一度も話したことはない。
電話はいつも決まって母からかけていたし、
母が代ろうとしても時子は頑なに断っていた。


親子の時間を邪魔するのは気が引けた、というのは言い訳に過ぎない。
本当のところ、時子は幸人と話すことが怖かった。
幸人の声を聞いて、自分の気持ちを知るのがたまらなく恐ろしかったのだ。


幸人は音大を卒業してすぐ、父親の反対を押し切ってオーストリアの大学院へ留学した。
ピアニストになることが幸人の小さい頃からの夢だった。


地元では有名な会社の社長だった父親は、長男である幸人が会社を継ぐことを強く願っていた。
音大への入学も、卒業したら自分の会社に入るという条件付きで許可したに過ぎず、留学なんて思いもよらない暴挙だったのだ。


父親とは対照的に、母は静かに首を振っただけだった。

幸人と時子にピアノを教えたのは、彼らの母親だ。
小さなころからピアニストを志し海外への留学経験もあった彼女は、ピアニストの夢を諦めた後、結婚し、我が子にピアノを熱心に教えた。


そのおかげか兄妹は大小のコンクールで度々受賞し、とくに幸人の成績は目覚ましかった。


「僕は将来、ピアニストになりたい」


時子がまだ小学1年生だったとき、幸人が重大な秘密を打ち明けるように彼女に言ったことがある。


その頃はすでに、幸人が父親の会社の跡取りになることはほぼ決定事項だったし、母親も表立ってそれに反対することはなかった。

ー兄さんは、私にしか本音を言えなかったんだろうな。


時子は早くから、幸人には自分にはない音楽の才能があると気付いていた。
だから幸人が音大に進むことも、クラシック音楽の本場へ留学することも、時子にとっては当たり前だった。


幸人の留学に唯一、諸手をあげて喜んだのも時子だ。


彼らの母親は心の中では息子の留学を望みながらも、夫の手前それを言えないでいるようだった。


幸人と時子は異父兄妹である。
その事実を聞かされたのは、時子が高校生になってからだ。

母はピアニストを目指して留学中、ある男性と恋仲になり身ごもったが、結婚はせず一人帰国して幸人を産んだ。
その後知り合った男性の熱烈な求婚経て、結婚し時子が生まれた。

母がどんな思いで幸人の父親と別れ、幸人を産んだのか時子には分からない。
幸人が自分の生い立ちを聞いて、どう思ったのかも知らない。
聞いたことがなかったし、聞いて良いことなのかどうかも判断がつかなかったからだ。


時子は扉の閉まる音で目を開けた。
辺りは一層、暗闇を濃くし、少し遠い席に座る人影も見えなくなっている。


「大変長らくお待たせ致しました。これから本日のプログラム〈春の星座〉を始めます」


女性のアナウンスが、暗闇にこだまし消えていく。
時子はこの暗闇に、自分ひとりだけが取り残されているように感じた。


どこからともなくやってきた寂しさが、時子を包み込み体温を下げていく。
体が固くなり、呼吸も浅い。
時子は再び目を閉じて、この状況をやり過ごそうとした。


時子は幸人がプロのピアニストを目指すためだけに、遠い外国に留学したわけではないと知っていた。
もっと、別の理由がある。
夢を叶えることと同じくらい、重要な理由が。
時子はそれを認めてしまうことが怖かった。


それを認めることは、今まで積み上げてきたものをすべて壊すことと同じだったからだ。


時子は左手で右手を強く握った。
以前ここに来たときは、この右手を握る別の存在がいたのに。
そう思うと、彼女の心はズキンと大きく震えた。


「北斗七星のとなりに、明るく光る星が3つあります。
これが春の大三角形です」


気が付くと、声は女性から男性に変わっていた。
顔を上げ、頭上で輝く星々に目を向ける。


有名な北斗七星の横に、直線で囲まれた三角形が見えた。
3つの頂点にあたる星は他のものに比べてひときわ明るく、それぞれ名前が浮かび上がっている。


時子はそのうちのひとつ、スピカを何気なく見た。


◆10月期募集中!お試し☆小説ライティング、小説ライティング(読み切り)◆

あなたの応援が、私のコーヒー代に代わり、執筆がはかどります。