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筑前煮

彼のために。

そう思って作ったのに、肝心の相手は鶏肉しか手をつけなかった。

「もう二度と筑前煮は作らない」

私がそう言うと、彼は困った顔をして笑っていた。

なにが面白いのか。はらわたが煮えくり返るような思いがした。

日曜日の夕方。

私は台所に立っていた。

リビングでは彼が横になってテレビを観ている。

いつもと同じ風景。

聞きなれたテレビの音。

嫌いじゃないはずの料理。

それなのに私の心の底では、黒いかたまりがくすぶっていた。

そのかたまりは灰色の煙を細く吐き出していて、いつのまにか私の内側を侵食していくようだった。

テレビからは大げさな笑い声が聞こえる。

「九州ではなんでも砂糖を入れるんですよ。

うちのばあちゃんは筑前煮にもどっさり入れてました」

包丁を持っていた手が自然と止まった。

彼は大学まで九州で育ったのではなかったか。

両親が早くに亡くなって佐賀の祖母の元で暮らしていた、と無口な彼が珍しく自分から話してくれたことがあった。

たしか、二人で焼酎を飲んでいたときだ。

その日は結婚式の二次会に出席していて、彼はすでに随分できあがっていたのだけど、ビンゴで焼酎を当てたからと半ば無理やり私を隣に座らせて夜遅くまで飲んだのだった。

『ばあちゃんは、すごく良い人だった』

嬉しそうに話す彼の横顔につられて、普段は焼酎なんて飲まない私もイカのスルメを片手に一杯、二杯と飲み続けた。

灰色の煙が一瞬でどこかに消えていった。

「今日は豚汁なんだね」

気が付くと、彼がすぐ後ろから鍋をのぞきこんでいた。

いつもより少しだけ、声のトーンが高い。

ほんの少しだけ。

それは、彼をよく知らない人には分からないくらいの僅かな差だ。

無口で、自分の気持ちを表現するのが苦手な彼。

そんな彼のために豚汁を作っている私。

筑前煮を食べてくれなかったことに怒り続けていた私。

すべてが愛しく思えて、私は彼の首筋にそっと唇を当てた。

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