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編む

数年前、編み物を始めた。20代の頃に一度挑戦し、私には向いていないと諦めたものの、コロナ禍で家で過ごす時間が増えたこともあり、再び始めてみることにした。

なぜ一度断念したのかというと、編み図が読めないから。編み図を詳しく解説した本をいくら眺めてもそれは暗号そのもので、編み物の世界の入り口への扉を、ピシャッと目の前で閉ざされたような気になった。

しかし、世に出ている「動画」のおかげで、編み物ができるようになった。まったく理解できなかった暗号の解き方を、映像を介して手取り足取り教えてくれる先生となった。

まず、手始めに編んでみたのがミトンだった。手首の部分はグレー、甲の部分は深い緑にした。編み図はなく、ただ動画を観ながら編んでいたら、2日でミトンが編み上がった。これにはびっくりした。ちゃんと独立した親指の部分もうまく仕上がっている。

成功体験は人のやる気を一気に増幅させる。それからは、靴下に帽子、パンツ、セーターにも挑戦した。手を動かすだけで、毛糸からスルスルと形が現れるのが楽しくて仕方なかった。私は棒針専門。両の手を規則正しく動かしていれば、余計なことはなにも考えずに済むところも気に入っている。編み物はまるで、瞑想みたいだ。

ただ、手芸好きな人にはわかってもらえると思うが、たくさんつくったものをどうするかが問題。もちろん、自分でも使うけれど、たくさん編むと自分では使いきれない。家族にあげたりはするものの、それでも編み上がったものがどんどん増えていく。

友人にもあげようかと考えるものの、「手編みってどうなのだろう」と、つい躊躇してしまう。既製品の編み物なら喜んでもらえるだろうが、手編みは好き嫌いがあるのではないかとも思う。なぜなら、私自身がそうだから。

自分の好みと合うものをもらえれば嬉しいが、ちょっとでもずれているものだと日常的に使うことができない。手づくりのものなら、なおさらだ。例えば、好きな人にプレゼントを贈るとき。私は手づくりのものを贈るのが苦手だ。マフラーやセーターがたとえうまく編めたとしても、どんなに美味しいお菓子をつくれたとしても、プレゼントには買ったものをあげたいと思ってしまう。

この心理はなんなのだろう。きっと、「手づくり = 気持ちがこもりすぎていて重い」といったイメージを持っているからかもしれない。だから、同性の友人にも、なかなか手づくりのものを渡せない。

だけど、好みがぴったりな友人は例外だ。友人のCとは好きなものや好みが似ていて、彼女にプレゼントを選ぶのは難しくない。単純に、自分がもらってうれしいものを選べばよいから。彼女には手編みの靴下や、刺繍をした布巾などを折に触れプレゼントしているが、いつもとても喜んでくれる。

そういえば、私の叔母は手芸がとても得意な人で、パッチワークでタペストリーや小物、かわいらしい人形などをつくりためている。この前会ったときには、「今年の冬は小銭入れを30個つくった」と言っていた。

彼女は毎日せっせ、せっせと手を動かし、野菜をもらったときや、ちょっとしたお礼がしたいときなどに、つくったものをあげているらしい。私も以前、手づくりのジャムをあげたときに、とてもかわいく、使いやすい鍋つかみをもらったことがある。

一度、「こんなに上手で、こんなにたくさんあるんだから、販売すれば?」と提案したことがある。すると、叔母は即座に「売るなんて、考えたこともない。ただ、つくるのが楽しいんだから」と言った。たしかに、趣味でつくるからこその楽しさはある。仕事になったら面白みが半減する、といった声を聞いたこともある。

いまは複雑な模様編みで、湯たんぽカバーを編んでいる。細かい模様にしたのでなかなか完成せず、それがまたうれしい。ゆっくりと時間をかけて編む間に、次は何を編もうと考える余裕ができる。今冬、すでに3つ編んだ帽子を、色違いでもう1つ編もうか、と考えている。


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