夜の街の作り方 ~小説『夜の街』NG集~

先日、遠藤周作の未発表原稿発見のニュースを聞いた。最近割とよく聞く気がするこの未発表原稿発見の知らせ。たぶん多くの人が同じことを思っているんじゃないかと想像してしまう。
作家は本当は表に出したくなかったから未発表のままだったんじゃないのかと。しかもその後確実に、未発表原稿発見→公開の流れになるのを見ると、故人の意志とか羞恥心とかへの配慮はなされているのか気になってしまう。

当然亡くなっているから故人がどう思っていたかは知りようがないし、公開されるかどうかは遺族の許可によるのだろうと思う。そして、遺族の許可によって、というと思い出してしまうのはAI美空ひばりのこと。
でも、未発表原稿の公開はむしろ、「あなたの未発表原稿を見ていますよ。頑張りましたね」と、掟破りの逆AI美空ひばりとでもいうべき、現世からあの世へ向けたメッセージを送ることにもなってしまう。
そんなメッセージに対し、故人は空の上でどう思っているんだろうか。

それはともかく、何か文章を書く際に、完成に至るまでには一度書いたものを書き直したり、まったく使わなかったりと、その多くは表に出ることもなく未発表のまま。
書いてみたら想像していたのと違うものになってしまったから、とバッサリ捨ててしまう人もいれば、一度書いたものは我が子のように愛おしく、できるだけ捨てずに利用したいと思う人もいると思う。もちろんどっちがいいとか悪いとかでもない。でも、食材の捨ててしまう部分にも栄養があるというのと同様に、文章でも捨ててしまった部分にはやっぱり本来やろうとしていたこと、伝えたかったことのエッセンスのようなものは残されているはず。

と、ずいぶん回りくどい言い方になってしまったけど、実際やろうとしてできなかったことも公開するのは割と意味のあることなんじゃないかと、削ってしまった部分もそのとき何をやろうとしていたかの記録として残しておこうと思う。
結局のところ、書いてみて狙い通りできた部分、できなかった部分、実際にやってみたシミュレーションの結果による経験値だけが書くことの向上につながっていくような気もするし。
それから、誰かに勝手に未発表原稿を公開されて羞恥心にのたうち回らないためにも、自らの意志で公開するという意味合いも含めて。

こちらが完成形。

以下がNGシーンを含めた本文抜粋。
当初は以下の通り、曲の動画を張り付け、歌詞をちりばめて、今はもうなくなってしまった歌で夜の街を表現するつもりでしたが、何だか騒々しいような、文章と馴染まなそうな感じもあってやめました。

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「名前をつけてやる」
 頬のこけた雇用主からそう告げられて、彼はロビンソンと名付けられた。その後、誰からもその名で呼ばれることはなかったが、確かに彼はロビンソンだった。

 授業そっちのけでイヤホンから流れる音楽に身を委ねていた中学時代、期末テストで解答欄どころか氏名すら何も書かずに提出して、すべての科目で0点を取ったことがあった。直後に教師から呼び出しを受け、試験のこと以上に普段の生活態度や皆とは違う服装や頭髪のことなどを散々説教され、これ以上何かあったらもう面倒は見られない、と釘を刺された。
 しかし、実際に彼は答案に何も書かなかったのではなく、氏名にはロビンソンとだけ記入していたのだと今ではそう思っている。教師は解答を書かなかったことが気にくわなかったのではなく、通名で書かれたその名前を認めようとしなかったのだと。

 自分が自分であることを証明するのに、名前と記憶以外に何があるというのだろう。
 この街で暮らす者にとって、今や顔や身体は何の証明にもならなかった。生まれもったままの顔と身体で生きる者などもはやほとんどいないのだ。ただ、それは他の街とは違い、人からコンプレックスを消し去ったり、身体の美的要素を強調することを意味しなかった。むしろそれとは反対の、社会から存在を隠し、匿名性を手に入れるための手段としての意味合いが大きかった。
 ただでさえ数か月もすれば体のほとんどの細胞は入れ替わり、表に現われる身体的特徴ですら刻一刻と変わっていく。そういった意味では人の記憶だって自分を証明できるかどうかは怪しいもの。昨日の自分のこと、一年前の自分が自分であるという連続した記憶があるから今も自分は自分であるはずだというその記憶ですら、思い込みや勘違いの結果形作られた記憶ではないとどうして言えるだろう。

 ふと自分を見つめる視線を感じて、彼はキーボードを打つ手を止めた。
 鈍い音を立てながら入口のドアが開く。無表情のまま彼を見つめる同僚の男の刺すような視線。足取りは重く、一言も発しないままゆっくりとした動作で部屋に足を踏み入れる。


 毎週金曜日に来るこの男の視線にはいつまで経っても慣れることがない。挨拶の言葉や会釈のひとつでもあればその視線も気にはならないのかもしれないが、無表情で投げかけられる視線には何か特別な意味が含まれているように感じてしまう。それも多くはネガティブな意味合いを。
 とは言っても、こちらも何も言葉を発しないのだからお互い様なのかもしれないが、本当は何も意味などないのに互いに誤解をしている可能性だってないわけではない。どれだけ時代が進み、文明が発達しようとも、人と人との争いや戦争がなくなりはしない理由も何となくわかるような気がしてしまう。

 雇用主がコンプリケイテドと呼ぶこの同僚は、その名の通り複雑な生い立ちによってそう名付けられたそうだが、この街に暮らす者で複雑な事情を抱えていない者などいるのだろうか。

 結局、同僚はいつも通り口を開くことはなく、パーティションで覆われた奥のブースへと姿を消す。彼は再び手元に目線を落とし、机の上のiPhoneのあかりを頼りに反応の悪いキーボードを打ち込んでいく。
 押したキーの戻りが悪いのは、以前雇用主がこぼしたコーヒーのせいだった。もはやコーヒーとは呼べないほどに過剰に投入された砂糖がキーとそれを保持するラバー部分にまで浸透してしまっていた。乾いたら大丈夫だろう、なんていう雇用主の考えは完全に甘いものだった。

 甘いものが幸せの象徴であったのは遙か昔のこと。今では糖分の過剰な摂取は欲望をコントロールできない人間と見なされてしまう。もちろん、この街ではそんなことを気にする人はほとんどいなかったが。

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以上、NGシーンでした。

こんな感じで淡々とした日常が見せ場もなく続くため、その辺の描写は一切省いてしまいましたが、この後、夜の街の外で女性と出会う所までは想像していました。人と人との交流の機会が激減している世界で、その対策でもある条件付きベーシックインカムの義務のひとつとして、知らない者同士も会わなければならないという、義務的ボーイミーツガールみたいな話ですが、実際やるとしたら相当長くなりそうだし、日常生活レベルで世界観がキッチリと作られていないと書けそうもなかったのでやりませんでしたが。

長編小説のダイジェストのつもりで短編を書いているので、夜の街で男が淡々と働く場面を見せるのも面白みに欠けるし、そもそも頭で考えた設定や世界観をただ説明することに興味がないというか、それを面白く読んでもらえるんだろうかという疑問もあります。生活の描写よりは、そこで生きる人が何を考えてどんな感情を抱きながら生きているのかを見たいし、そのことにしか今は興味を持てないので。

個人的に「夜の街」というと思い出すのは、歌舞伎町の映画館でレイトショーを観終えてからの帰りの街並みのこと。
暗闇から解放された直後の眩しすぎて目に突き刺さる朝の光の強さと、通りの脇に積み上げられたごみ袋の山とそれに群がるカラスの姿。
そのときの情景が、新しく生まれたばかりの朝の生と、昨夜の残骸が残された死の世界が同居しているような、日々繰り返す生と死を象徴しているような気もして、お腹の空き具合とあいまって生きている実感のようなものを感じたことを、「夜の街」という言葉を聞くたび思い出したりします。

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