東京新聞に捧げるエッセイ『檸檬の行方』

歳を取ったせいだろうか。ふと頭に浮かんだ考えがなかなか消えてはくれない。
えたいの知れない愉快な塊、とでも言ったらいいのだろうか。
時間が経つほどにその考えは頭を占め、あとは口から発しさえすればその場に見事な花を咲かせることができるような、そんな気がしてしまう。

先日話題になった東京新聞のコラムを読んで感じたのは、キログラム原器の精度についてでも、檸檬のことでも、物理学や文学についてでもなかった。
そこで感じたのは、歳を取ってしまったことへの悲しみ。世の中の親しみあるものがよくわからないシステムに置き換わっていくことへの焦りやいらだち。人は頭をもたげた考えに突き動かされ、その思いのいいなりになってしまう、ということだった。
そして、それは他人事ではなく、今まさに自分が身をもって感じ始めていることに他ならなかった。

頭に浮かんだこの言葉を、胸の内にそっとしまっておくことなどできなくて、その言葉を発することこそが自分自身なのだと、本来それを食い止めなければならない脳の奥底からも、自分を正当化する声が聞こえてくる。

そうして放った言葉がまた、周りの空気を凍りつかせる。
またオヤジギャグですか、なんて声がかかるうちはまだいい。何の生体反応も感じられないほどに、生物たちは声をひそめ、不発に終わった言葉の余韻だけが宙を漂う。

こうして我々は日夜、地球温暖化に対してささやかな抵抗を続けてしまう。それがどれほどの効果をもたらしているかも考えずに。


「この重さはすべての善いものすべての美しいものを重量に換算して来た重さである」

梶井基次郎の『檸檬』にあるこの一文。この美しい文章を見た瞬間、おそらく直感が囁きだしたのではないだろうか。これさえあれば、キログラムの定義変更についても文学的に語れると。

文学でも科学でも、直感が人を創作や研究に駆り立てる。論理や理屈を超えて、人を動かす原動力はいつだって直感によるところが大きい。
しかし、本能や感覚、これまでに得てきた知識、経験から導き出された直感は、知らず知らずにその人自身の心の奥底に潜む心情をも露わにする。

今まで自分たちが生きてきた世界は、あらゆるものが手に取れる、実感を伴った世界だった。だが、世の中を動かすシステムの根本が、手に触れることのできない、理解のできないブラックボックスに取って代わられていく。世界が少しずつ自分から遠くなっていくような寂しさ。
キログラム原器の多少の誤差すらも許されなくなっていくことに、社会がちょっとした間違いや失敗までも認めなくなっていくような閉塞感を感じたり。
また、世の中のあまりにも早い変化のスピードが、情報やその価値、倫理観までも変化させ、自分が一瞬で古い人間になっていくような感覚。でもそのことが認められず、古くからの馴染みあるものこそが正しくて、新たに目にするものはどこか間違っているんじゃないかと疑いたくなる気持ち。

文字数の限られたコラムでは表現できることに限りがあるが、その端々からそのような気持ちが溢れ出しているように感じてしまうのは、自分が今の社会に対してそう感じているからなのだろうか。

しかし、実体のある檸檬の重さが確かなものであっても、目には見えない馴染みのない定理が不確かであるとは言えなくて、科学や物理も人の歴史、人の社会が作り出してきた確かなものに他ならない。

だから、物理学に対して文学の力でカウンターパンチを浴びせようとする必要なんて、本当はなかったのかもしれない。
文学を物理や科学と対立するものとして、人が安易に想像しがちな対立構造をことさらに煽るべきではなかったとも思う。

理系がもてはやされることに、文学の価値が貶められてしまうような危機感を感じても、文学で何かを攻撃して良いということにはならない。文学の持つ力は、何かを攻撃するために使うものではない。

文学とは、想像を巡らせる力。

暴力はもちろん問題だが、もし、なんらかのパンチを放たなければならないのであれば、その振り上げたこぶしが誰のためのものなのか、その場の感情に流されてしまう前に、その後のことを想像してみて欲しい。
必ず誰かがその後の処理をしてくれているはずだから。

不発弾のように残されたオヤジギャグ。冷たく凍りついたその場の空気。
ギャグを放った当の本人は、それがどうなろうと気にもとめない。
その場に残された者たちが、その場の異様な空気を処理していく。

梶井基次郎が積み上げられた本の上に檸檬を残していった後、誰がその檸檬を片付けたのだろうか。丸善の店員の誰かがその後の処理をしていたのではないだろうか。
また、渋谷のハロウィンの後、道端に捨てられたごみを片付けたのは誰だったのか。

何かに興じることは悪いことではない。けれども、その場のノリに身を委ねて、おそらく普段はしないであろうことまでして良いわけではない。
今という時間、今ある感情に流されてしまう前に、ほんの少しでいいから想像を巡らせて欲しいのだ。
その後、誰がそれを処理しているのかを。

それだけでどこかの誰かが救われる。
どこかで誰かが想像したことで、あなた自身が救われる。
思いやりとは、他者への想像力、優しいまなざしのことだったはず。
世界はこれまでそうして回ってきたし、これからもきっとそうなのだ。

だから、檸檬を置くことに興奮を覚えたら、少しだけ考えをその先に巡らせて欲しい。

その後、檸檬がどうなっていくのかを。

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