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拝啓「無理できない身体」になったわたしへ




昨年の今頃は24歳だった。それが今や25歳になり、11月の誕生日を迎えれば晴れて26歳になる。

当たり前のことだ、当たり前のこと過ぎてつい忘れそうになる、年齢とともに身体が衰えるということを。



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まだお酒も飲めない年齢だった頃、夜通しゲームなんてへっちゃらだった。

1日10時間のバイトを10連勤も難なくこなせた。片道一時間半の場所へ自転車で遊びに行くのもザラだった。

典型的な「金はないけど体力は有り余ってる大学生」をしていたあの頃は無理をするのが専売特許でもあるように、できるだけ隙間なく予定を詰めて遊んだ。楽しかったなぁ。



それがお酒を嗜むようになり、就活に追われるようになり、あくせく働くようになり。わたしの身体はすっかり「無理すること」に否定的になった。

夜通しゲーム? バカ言ってんじゃないよ。
1日10時間のバイトを10連勤? アホか、死ぬぞ。
片道一時間半の場所へ自転車で? まぬけ、帰れなくなる覚悟はいいか。
無理すんなって、身体は大事にしろよ。

まったくその通りだ。その通りなんだけど、人間っていうのはかつてできたことができなくなるとひどく落ち込むようにできているらしく、わたしは自分の「無理できない身体」に肩を落とした。

人ってこうやってどんどん色んなことを諦めていくのかなぁ、なんて悲観した夜もあった。



***



そんな仄暗いある日、ラーメンを食べに行った。嫌なことがあった日の透き通った醤油ラーメンが妙にお腹に染み渡って美味しいことは、20数年間生きてきて知った法則だ。


油でくすんだ赤い暖簾をくぐるとぷわ~といい匂いが漂ってくる。腹の虫が騒ぎ出し、メニュー表をめくる指がもどかしい。

どれにしようかな、とろとろやわらかなチャーシュー麺、にんにく炒めが食欲をそそる肉野菜ラーメン、胃袋をガッツリ満たしてくれる大盛り。さて、わたしを満足させてくれるのはどの子かな。

一個一個のメニューに目を滑らせていると、カウンター席の後ろを店員さんが通り過ぎた。手にはネギ増し増しの特盛ラーメン。

腹の虫が内側から這い出しそうになって、「醤油ラーメンの特盛ひとつ」と喉まででかけたとき、厨房の上にでかでかと張ってあるメニューに目が止まった。


『ラーメン 650円』


シンプルだ。650円の数字の下には美味しそうな写真がついている。とろとろそうなチャーシューが2枚、メンマが数本、ナルトが1枚、そして透き通ったスープと細い縮れ麺。

実に美味しそうだけど、とってもシンプル。何の変哲もない感じ。どどどんとチャーシューが盛ってあるわけでも、大量の野菜が乗っているわけでも、麺の量が倍になっているわけでもなさそう。

ラーメンの中では1番スタンダードで、最も安価な一杯。おそらく量的にも一番少ないだろう。

だけど妙に良さげに見えるそのラーメンに、わたしの身体がささやく。

あれにしておけって、絶対に丁度いいから。

丁度いいってなんだよ、と思いつつもその声に抗えずに定員さんに注文する。

ラーメンが運ばれてくるまでの間、後ろのテーブル席に座った大学生くらいの男の子たちが美味そうに特盛を食べるのに「せめて大盛りにすればよかったかな」と何度か思った。

しかしそんなことは露も知らずにどんぶりはやってくる。チャーシューが2枚、メンマが数本、ナルトが1枚、そして透き通ったスープと細い縮れ麺。メニュー表で見たままのそれが目の前にやってきて、さっそく割り箸を割って手を合わせ、いただく。

これこれ、これだよ、人間の幸せは。美味しいものを食べれば大抵の嫌なことは忘れられるもの。

しっかり出汁のきいた醤油ベースのスープを一口すするたびに、喉に溜まったもやもやが流されていく。ついでに空っぽだった胃も満たされていく。至福。

ここはチャーシューも美味しい。赤身半分、脂身半分という完璧な配分のとろとろのお肉が口の中でほどける。最初にラーメンにチャーシューを合わせようって考えた人、多分天才だよね。

そう思いながら食べ進めていく。やっぱりちょっと足りないかな、と思ったのもつかの間。麺もトッピングもしっかり完食してスープも半分以上飲み干した頃、わたしの身体が言った。

ほら、丁度いいって言っただろ?

そのしたり顔むかつくな、と思いつつも、そいつの言う通りお腹の満ち具合はぴったり腹八分目。気持ちよく赤い暖簾をくぐって外へ出た。夜風が冷たく、温まった身体に心地が良い。



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わたしはもともと大食漢ではない。身長が平均以下だから、人より胃も小さいかもしれない。だけど周りが「大盛りにしよー」って言ってると、「じゃあわたしも」となってしまうのが人の世の常。というかわたしの常。だって美味しそうなんだもん。

だが最後には大抵後悔していて、普通のにすれば無理をしなくても全部美味しく食べられたのになーと思うことも多かった。

それがこの歳になって、あのささやき声に渋々ながら従うようになったら「お腹苦しいー!こんなに頼まなければよかったー!」ということが極端に減った。好きなものをちょっとずつ、身体が喜ぶ程度に食べられる。

「無理できない身体」が自分に出す警告が、ぴったりとわたしの快適指数を予測してくれるからだ。

他にもある。夜通しゲームはできなくなったけど、次の日に夕方まで寝ていて休みを無駄にすることがなくなった。片道一時間半の道のりを自転車でいくことはできなくなったけど、筋肉痛にもだえて次の日の予定をドタキャンすることもなくなった。

それもすべて、「無理できない身体」がわたしの丁度いいを知らせてくれるから。



なーんだ、そんなに悪くないじゃん、「無理できない身体」。できなくなったこともあるけれど、いわばそれは戦略的撤退。だってわたしには明日がある。大切な明日のために「してはいけないこと」がわかりはじめただけ。

思い返せば、学生時代だって無理の代償は次の朝にきちんと払わされていたしね。だいたい「若い頃は無理がきく」って、自分でちゃんと「無理」ってわかってるんじゃん。

行き過ぎた無理からは足を洗おう。そうして「無理できない身体」と手を取り合って、上手にやっていこう。


な、仲良くやろうぜ。






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