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短編小説_きみとうたたねの頃に


定時五分前になると時計に意識が向くのは、ミキちゃんの先輩になってからついた癖だった。

「せんぱーい、なにかすることありますかぁ」

書類が散乱したデスクに可愛らしい建前が弾んで落ちる。はじめこそ「思っていないことは口にするもんじゃない」と心のなかで毒づいていたが、今は先日社内報で回ってきた「パワーハラスメントに関する規則」の条文が頭をかすめる。加害者側に自覚がなくとも、被害者側が不快に感じればハラスメントである。

「いいよいいよ、定時だから帰りな」
「ほんとですかぁ、じゃ、遠慮なく」

化粧したてのような頬をぷっくりさせて笑い、ミキちゃんはすでに支度済みだったグッチの鞄を提げた。以前お気に入りだと話していたヴィトンのトートバッグは先週から一度も見ていない。それがイマドキの子らしくて静かにおののく。

「せんぱいも早く帰らないと、また課長に怒られちゃいますよぉ」
「あはは、そうだね」

ミキちゃんのやりかけの仕事を片付けたらね、とは言わないまま口の端だけ上げると、彼女はより可愛らしい声を出して「そういえば、」と続けた。

「ここって深夜になると出るんですよね。ひとりでいるの、怖くないんですかぁ」
「うーん、慣れちゃえば案外平気だよ」
「ミキ、絶対ムリ、怖いの苦手だもん。でも二十歳までに見なければ一生見なくて済むっいうから、それが唯一の救いなんです」

霊感とかないし、いやでもやっぱムリ!と見たこともない幽霊の間を行ったりきたりしたあと、ミキちゃんは定時きっかりに退社していった。その背中を見送りながら、一息ついたついでに鼻の頭に指を置く。指紋の凹凸がてらてら光った。昼食だって食べ損ねたのだから、化粧直しする時間なんてあったはずがない。


帰りの電車に揺られていると、それは突然訪れた。

最寄駅から終電に乗り込む。車両内は無人だった。端の席に腰を下ろすと、見計らったように睡魔がやってくる。乗り過ごす恐れもあったが、勝てない相手だとわかっていたので潔く目を閉じる。快速列車が夜を切る中、わたしはとろとろと眠りに落ちていく。


は、っとした。

窓の外を電線が波打ち、住宅から漏れるあかりは切れ長になって消えていく。ぎこちない滑らかさの車内アナウンスが現在地を繰り返す。まだふたつ目の駅だった。

またか、と思ったのと同時に大きなため息が出た。家につくまで溜めておくはずだったものが垂れ流れていくみたいに、緩慢な速度で鉄の箱が止まった。

わたしは無意識にぱっかりと開けていた口を閉じ、正面を見た。長椅子の端の席に女性が座っていた。女性は壁側に身体を預け、少し斜めに傾きながら安らかな顔で舟を漕いでいる。髪は垢抜けない暗色で、今の会社に入ってから染める時間も惜しくて黒に戻したことを他人事のように思い出す。場違いにぽつんと白いつむじに白髪がないのを確かめながら、わたしはわたし退屈な寝顔を眺めた。

幽体離脱っていうのかな、こういうの。

二十歳まで幽霊を見たことがなかった。三十路に差し掛かかろうとしている今も、おそらくわたしの目は怪奇現象を映さない。だけどね、ミキちゃん。見ることはなくても、なることはあるらしいよ、と言ったら、わたしはパワハラだかモラハラだかで処分されたりするんだろうか。


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中学生のとき、ストレスに関するアンケート調査を受けたことがあった。あの頃はそれまで小さな箱庭で隠されてきた様々な問題が暴かれ出した時代で、かつて神様だったひとたちの顔がたびたび夕方のニュースを飾っていた。

帰りのHRで配られたそれは薄い焦げ茶色の藁半紙に印刷されていた。用紙にはいくつかの質問とはい、いいえの二択が印字されている。

「記入した者から退出してよし」

これといって荒れている生徒もいない教室は、サッカー部や野球部など顧問が厳しいと噂の部活から順にいなくなる。「うちの生徒は健やかですよ」と学校がアピールするためだけの紙切れに、誰も興味などなかった。

先に出ていったクラスメイトに習ってアンケートに答える。いじめられていると感じることはありますか? いいえ。いじめを見たことはありますか? いいえ。学校に行きたくないと思うことはありますか? いいえ。夜はよく眠れていますか? はい。

提出した用紙をちらりと一瞥して、先生が言った。

「うん、よく眠れているのは良いことだな。ストレスがない証拠だ」

その場で回答を見るなんて今の時代ならクレーム案件だろうが、当時は気に留めることもなかった。大人とはいつも正しい生き物だと思っていた。

どんなに辛いことがあっても、眠れない夜はなかった。親友だと思っていた子に頬を叩かれた日も、「あなたも悪いんじゃないの」と担任教師に言われた日も、父が出ていった日も。むしろそういう日の終わりにこそ長く、そして深く眠った。次の朝に寝坊して母に起こされ、「あんたはいいね」と言われた日の夜さえもだ。もはやひとつの才能かもしれないと思っていた。


安らかな寝顔を眺める。これが恋人や我が子なら何より愛おしいのだろうけど。目を閉じた自分の顔など何度見ても気味が悪いとしか思えなかったし、それは自宅のベッドでも、先日のように電車の中でも、そして恋人の部屋にいても同じことだった。

「ごめん、また寝てたね」

常夜灯が照る下で目を覚ますと、PCデスクに腰掛けた和知くんが振り向いた。

「おはよ。寝癖やばいね」
「え、うそ」
「ほんとほんと、その頭じゃもう今夜は外出れないね」

そう言って和知くんは細い目をさらに細くした。わたしは怒ったふりをして「ちょっとー」と睨んだが、口元がほころぶのを抑えられなかった。

「明日の朝早くないなら泊まっていきなよ」
「和知くんまだ起きてるでしょ。また寝ちゃいそうだし、さすがに悪いから帰るよ」
「気にしなくていいのに」

光源の前に座った彼の影がシーツに伸び、和知くんがコーヒーを啜ると影も同時コーヒーを嗜む。部屋には暖房が入っていて少し暑いくらいだった。身に余るものに優しくくるまれている気がした。

和知くんは、まさに“わちくん”らしいひとだった。その名前は高橋や吉田など小中高で慣れ親しんだどんな名字よりも口馴染みが良く、自然と呼ぶひとを親しくさせる。また返事をするとき無意識に眉が下がるのも、凝り固まったものをほぐしてくれるようだった。

「そういえばスマホ鳴ってたよ」

言われて電源を入れると着信が十二件入っていた。寝ぼけて丸くなった背筋の輪郭が描けるほどに固くこわばる。

「ごめん、うるさかったよね」
「構わないけど、なにか急用?」

答えかねているうちにまた着信が鳴る。素早くサイレントモードに切り替える。それでも画面に表示された「母」の一文字が迫ってくる。

「やっぱり今日は帰るね」

送るよと言った和知くんを玄関で制し、ひとりで夜道に出た。そこでちょうどかかってきた電話に応答する。金切り声が頭の芯を貫く。

なんですぐ出ないの、こんな時間に何をしている、男といるのか、まぁはしたない。適当に相槌を打っていると、今度は世間への不平不満を吐き出し始める。お隣のゴミの出し方が、町内会長のくそ親父がうるさくて、友だちのさゆりちゃんが裏切った。

わたしは唯一思い出せたさゆりちゃんの顔を思い浮かべた。遊びにくるときに必ずゴディバのチョコレートを買ってきてくれたのは確かさゆりちゃんだったな、あれ、わたしはあまり貰えなかったけどすごく美味しかったな。

努めて別のことを考えながら母の雑言を受け止めていく。果たして彼女は自分がわたしの母だということを覚えているだろうか、それともわたしが彼女の娘だからこうしてぶちまけられるんだろうか。

お気に入りのアイドルの深夜番組がはじまるからと切れた電話を片手に、ベッドに潜り込む。強烈な眠気が思考の上に横たわり、抵抗する間もなく連れ去られた。


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いけないとわかっていても唇を噛むくせが治らないように、もう起きる時間だとわかっていても目の醒めない朝がある。眠っている自分の姿が見えるようになって一番もどかしいのがそれだった。

目を開いたのと同時に身体を起こし、身支度を始めた。洗面台で顔を洗い、着替えと髪のセット、顔認識のために最低限の化粧。慌てていたせいで扉の角に二度足の小指をぶつけた。しかしうずくまっている暇はない。遅刻ギリギリだ。

どうせ意識があるなら、自分のことを起こせればいいのに。布団を引っ剥がし、金切り声で「起きなさい」と命令する、母がそうしていたように。どうにか朝礼に間に合いそうだった。

出社してすぐに課長に呼び出された。どういうことかと重い声で聞かれ、ミキちゃんが辞めたことを知った。

考えてみればすぐにわかることなのに、なぜ自分が詰られているのかしばらく理解できなかった。行き場のない怒りは大抵一番近くの人へ降りかかる。連帯保証の契約などしなくても、ミキちゃんがいなくなれば課長の怒りは先輩のわたしに、父がいなくなれば母の怒りは娘のわたしに。当たり前のことだ、想像しなかった頭の悪い自分が悪い。

やはりこのときも、強烈に眠かった。課長が外回りだと言って直帰した金曜日の午後、はじめて会社の机に突っ伏して寝てしまった。誰にも声はかけられなかった。


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なにかに失望するとき、わたしたちは自らに期待しすぎている。希望は過不足ないほうがいいとわかっているのに、生きているだけで偏りが出てしまう。

毛足の短いカーペットの上で安らかな顔をしたわたしが身を横たえている。カーテンの隙間から漏れる朝日が眩しいのに身体はぴくりとも動かない。死んでいるんじゃなかろうかと思ったが、確かに息はしていた。

しかし生きているとわかったら、なおさら蹴飛ばしてやりたくなった。

スマホのディスプレイに目をやる。時刻は午後二時を過ぎている。通知は複数件溜まっていて、ほとんどが母からの電話と、一件だけリマインド通知。

不在着信、不在着信、午前十時・駒沢大学駅前で和知くんと待ち合わせ、不在着信、不在着信、不在着信。

和知くんは、もう家に帰っただろうか。それともわたしの連絡先を消した頃だろうか。

自分の寝顔に指先を当ててみる。爪は食い込むことなく鼻先を通り抜ける。ファンデーションでどろどろなはずなのに皮脂がちっともつかない。もう一度繰り返す。何度も何度も繰り返す。

ねぇ、いい加減にして、もうお昼過ぎだよ、早く、起きてよ。


不意に、わたしはわたしの身体に戻った。家のチャイムが鳴っているせいだろう。慌てて玄関に走る。どろどろの顔面が気になったけど、どうせ宅配便かなにかだ。待たせるよりはマシだと言い訳してのぞき穴から外を見る。

「和知くん?」
「そうです、和知くんです」

玄関を開ける。和知くんが右手を上げて「おはよ」と笑った。

「どうして、」
「最近よく眠たそうにしてたから寝坊かなーと思ってさ」

名推理でしょ、と付け足した彼を家にあげると、左手に提げていた袋をダイニングに置いた。硬いもの同士がぶつかる音がする。

「約束破ったんだよ、わたし」
「うん、でも『約束破ります』って連絡もなかったから、じゃあ迎えに行けばいいかって思って」

なにそれ、へんだよ。そうかな、へんかな。うん、へんだよ。思わず笑ってしまう。

「だって、俺はきみの恋人でしょう?」

プシュッと小気味の良い音を立ててプルタブを開け、缶を差し出す。和知くんが買ってきたのはキンキンに冷えたビールだった。なんでお昼過ぎから、 と聞く前に、喉がぐ、と鳴いた。身体がひどく渇いていた。差し出されたものを受け取ってぐいぐいと飲み干していく。寝起きにアルコールだなんてくらくらする。

良い飲みっぷり、と言いながら和知くんも飲み始める。袋の中には他にもサラミやチーズ、冷凍の枝豆なんかが入っていて、ふたりで順に開けていく。

生ぬるい午後の陽気と、窓を通り抜けてくる少し冷えた風。立ったまま口の周りに苦い泡をつけたわたしたちは、予約していた映画の時間などすっかり忘れている。


日の高いうちから飲むと、日の落ちる頃に眠くなることをはじめて知った。ソファには梅酒と氷の入ったグラスをからからする和知くんと、その肩で眠りこけるわたしがいる。

「気にしなくていいのに、って、言い方はよくなかったね」

テレビが騒がしく喋る部屋に、和知くんの声がぽとりぽとりと柔らかく落ちる。

「きみが隣で眠っていると、夜って優しいんだなって思うんだよ。俺、あんまり長く眠れないたちだから、子供の頃は夜がくるのが怖かった。でもきみがいるとさ、」

言葉はそこで途切れた。グラスをテーブルに置いてあげたかったけど、なににも触れられない指先が少しもどかしい。わたしの身体はすやすやと眠っている。和知くんも寝息を立てはじめる。

眠ったふたりを前に、わたしはじっと考える。安らかさとはなんだろうか。ただひとつだけ確かなのは、今までの自分の顔が“安らか”ではなかったということだ。さしずめ目の奥が笑っていない笑顔のような、今にも倒れそうな人の「大丈夫」のような。

今なら目の前の寝顔を肴にできる気がした。



【終】




この作品は、生活に物語をとどける文芸誌『文活』6月号に寄稿されているものです。今月号のテーマは「やすむ」。時間のながれに身を預けて心がやすめられるような、そんな6作品が集まっています。文活本誌は以下のリンクよりお読みいただけますので、ぜひごらんください。



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