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カーテンのない部屋に住むということ




最寄りのコンビニまでの近道に、2階建ての大きな一軒家がある。デザイナーがついて綿密に設計されたようなお洒落な外観の建物は、凛とした真っ白な顔をして佇んでいる。わたしはそれを見上げながら、最近お気に入りのアイスを買いに行く。


何もお洒落なお家はその建物だけではない。わたしの住むアパートのある地区はいわゆる高級住宅街で、壁の配色だけを変えたような量産型の建物はひとつもない。どの家も個性にあふれ、綺麗に整えられた庭木と高そうな外車を持っていた。引っ越してきたばかりの頃は、なんだか場違いなところにきてしまったなぁと思ったものだ。

それにも関わらずコンビニに行くたびにその白い壁の家だけを日課のように見上げるのは、その家の窓にはひとつもカーテンがつけられていないからだ。庭に面した吹き抜けの大きなガラス窓も、二階の書斎らしき部屋の窓も、ときどき猫がヘリであくびをしている小窓も、中と外を隔絶するものは透明な壁ひとつだった。

だから夜にサンダルを突っかけて家の前を通ると、猫を撫でる奥さんの姿やお風呂上がりTシャツ姿の旦那さんを見かけることがある。その時ばかりはさすがのわたしもじろじろと見上げることはできず、なんにも見ていませんよという顔をして足早に通り過ぎだ。よく考えればそこまでする必要もないのだけど、いつも見上げている後ろめたさからかなんとなく気になってしまう。



だって、部屋にカーテンがないなんて、それが家として・パーソナルスペースとして成立するなんて。わたしにはにわかに信じがたく、自分の家のことを思い出してしまう。薄いレースのカーテンの上に分厚い遮光カーテン、それが狭い一室の2つの窓を覆っている。さすがに磨りガラスの小窓にはつけなかったが、その窓を開けることは年に何度もない。

家というのは、また自分の部屋というのは、自分にとって限りなく「他人の侵入を許さない領域」だ。可能な限り人から中が見えないように仕切り、他人の視線から逃れられてはじめて心から安心できる。そこを見知らぬ誰かが覗いている、なんて思ったらと背筋がぞっとした。

もちろん人を呼ぶとなればそれなりに準備を整えた上で迎えることもあるが、その「それなりの準備」によって様相を変えた部屋はまるで他人の領域のような顔をし、ちっとも自分が寛ぐことができない。完全に人に見せるために作った空間は「パーソナルスペース」とはとても呼べなかった。

そんなわたしの空間とは正反対の、真っ白な壁の家。彼らには隠したいものがひとつもないのだろうか、と考えながらいつも見上げていたのだ。



***



noteをはじめとするSNSでも、時々似たような現象に出くわす。

「この間、リアルの友達にエッセイを読んでもらったんだけど」という世間話や、「記事は公開する前にかならず妻に見せてる」というほっこりする話題。おそらくご本人たちにとっては些細な独り言の中に、わたしは目を丸くすることがある。

カーテンのない部屋と同じだ。実物の自分を知っている人に文章を見せることができるなんて、それだけバーチャルとリアルの落差が少ないなんて。わたしにはできないことだ。

決してネット上の自分を過剰に偽っているわけではない。どこまでいってもベースは変わらない、七屋糸=本名で結ぶことにもさほどの抵抗はない。だけど知り合いに自分の文章を見せようという気は、おそらく天地がひっくり返りでもしない限りおきないだろう。なにせわたしにとって文章とは、誰ひとりにも見せていない自分をさらけ出すということ、「他人の侵入を許さない領域」を公開するということ。

わたし以外にも、リアルな人間関係の中に自分の書いた文章を持ち込むことに恐怖を感じる人は多いと思う。それだけネット上の世界が”本音を吐き出せる唯一の場所”として誰かの心を救っているということであり、まさにわたしも救われているひとり。

誰にも見せられない自分だけのスペースを、わたしと知られずにこっそりと公開することができるのがバーチャル空間の良さ。だからその「わたしと知られずに」の部分が侵されているとしたら、それは大変な恐怖だ。


そう思ったら、自分の心のスペースがとても閉じていることに気がついた。


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