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溶けない人 #みんなの2000字



ぴちゃ。

朦朧とした頭が聞いたのは、自転車のカゴに放ったペットボトルの音だとわかっていた。しかし国道沿いのキツい照り返しを浴びていると何もかもが遠く感じて、まるで脳みそが溶けたような錯覚を覚える。

それでもペダルを漕ぐ足を止めることはなく、自分でも不思議なくらい一心不乱に前へ進んでいく。

額から流れ落ちて目じりをかすった汗を手の甲で拭うと黒々しい繊維状のものが何本も一緒についてきた。新しく買ったマスカラは耐久性が弱いらしく、彼に会う前に化粧直しが必要だと思ったらますます気が遠くなった。


大通りから少し離れた、薄いオレンジ色の二階建てのアパート。そこが全身汗まみれにしながら炎天下を走るわたしの目的地であり、彼の居城だった。

年中日差しの入らない窓辺からは一件のコンビニが見えて、自炊をしない彼はそこでお弁当を買う。冷蔵庫にはいつも六缶パックのビールだけがぽつねんと座り、来客があると昼夜問わずそれを振舞うのが癖だった。もちろん、わたしにも。


足のふらつきを自重で押さえつけながらガコンと自転車のスタンドを下ろす。その拍子に細いタイヤがふくらはぎをかすり、ジリジリと焼かれた肌のほてりがいよいよ限界だと訴えてきた。

涼しさを求めてアパートの外階段を上がっていくと、彼の住む二階の一番奥の部屋の扉が日に焼けて白茶けていた。


チャイムを鳴らす。誰も出てこない。

しかし中からは人の気配がする。

ひたひたと漏れ出る細かい砂のような音はおそらくシャワー浴びている音だろう。銅を溶かしたような赤錆びたドアノブを試しに回してみると、あっさり開いてしまった。


夏の熱気が部屋を侵すかわりに、足元からはキンと冷えた空気が滑り出てくる。それだけで崩れ落ちてしまいそうなほどわたしの身体は逃がしようのない熱に参っていた。

狭い廊下を抜けた先、6帖のワンルームの真ん中に彼が眠っているようだった。

閉め切られた遮光カーテンの分厚さと背後から襲ってくる日差しのコントラストがキツくて視界はぼやけたように曖昧になるが、かろうじて人がいるのはわかる。近づくと男の人にしては華奢ですね毛の薄い足が敷布団から飛び出して、彼だ、とわかった。

なにがなんだかわからないまま靴を脱いで上がると、少し湿気った空気に満ちた部屋が気持ち悪い。

静かに扉を閉めて薄暗い視界を手探りに進むと、廊下と部屋を区切る薄い扉の角に何かが引っかかっていた。つまんで拾い上げて見る、薄い生地の白いブラウスだった。他にも辺りには服が散乱し、女物のアクセサリーがべったりと付着するように落ちていた。

私のでは、ない。


シャワールームの音は止まない。彼じゃない誰かが、そこにいる。


気づいた瞬間に息の根が止まり、一秒後に吹き返す。暑さに朦朧としていたのが嘘みたいに頭がすっきりして、張り詰めていた糸がふつりと切れるのと同時に理解しないようにしていた小さな違和感たちが噛み合い始めた。

そろりと部屋に身体を滑りこませ、エアコンの涼しさに安堵しながら人の形に盛り上がった手触りの良いタオルケットを撫でる。息を詰めて一度、二度、と手を動かしているうちに、そのまま爪を立てて力の限り握り込みたい衝動に駆られた。

薄闇で穏やかに眠っている彼の、その皮膚ごとむしり取るように力を込めたらこの気持ちが少しは収まるだろうか。もしくは彼の滑らかな首筋を切り裂いて、寄り添うようにわたしも死んでいたら、シャワールームの彼女はどう思うだろう。

こんな男のために自分の人生を台無しにするなんて、脳裏に繰り返し焼き付けた言葉とわたしの中の常識らしいものがストッパーになって息をしている。

彼はわたしを呼んだことすら忘れているだろうに、起き出せばきっと涼しい顔でおはようと微笑むのだろう。それが恨めしくて喉が引きつる。


六缶パックのビールが空っぽになったあと、狭い部屋に残された男女がどうなるかなんて決まっている。

彼はわたしに優しくて、ほかの女の子にも特別優しいから、きっと湿った部屋のえづくほどの気持ち悪ささえも甘く変えてしまう。そうして火にたかる羽虫になった成れの果てが自分だと気づきながらも、今日までだましだましやってきたのだ。


わたしは彼の枕元にぺたりと座り込む。シャワールームの住人が誰かは知らない。これからどうなるかなんて、わからない。

それでも今日は、都合のいい女にはならない。だって外は炎天下。自転車のタイヤだって今頃アスファルトの熱に溶けているだろう。


わたしも、もう溶けてしまいそう。


彼はまだ起きない。シャワーの音も鳴り止まない。こんなになってまで貴方の優しさを求めている自分に反吐が出るのに、この人しかわたしの輪郭に触れてくれないから、どうしようもない。


全部暑さのせいだとつぶやいて、わたしは夏を言い訳にした。




***




ちょうど一年くらい前、書いたことすら忘れていた掌編があった。

短編を集めたマガジンの底の底の方。一分程度で読めるほんの短い文章が埋まっていて、それを目にしたら何かを思い出したような気がしたけど、たぶん気のせいだと思って放置していた。

それから少し経って、またひょいっと気になり出す。

今ではそこそこ分量の小説を書くことの方が多くなって、あの頃の自分の気持ちどこへいってしまったのだろう、と。

忘れてしまったのなら掘り起こせばいい。所詮はわたしの考えることだ、わたしにわからないはずがない。

そうやって小さなスコップを取り出してえっちらおっちら掘り返してみたら、大したものは出てこなかった。ただそのかわりに掘り返した土が山になって、別の新しいものが出来ていた。



この小説はそんな気持ちが生んだものです。説明ふわっとしててごめんなさい。



新しいものを書きたい意欲はまだまだ枯渇しそうにないけれど、あえて「今のわたしの2000字」と言われたらこれかな、と思いながら書きました。

最後までお付き合いいただき、ありがとうございます*



それでは余談はこの辺で。




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