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三景

「おーっし、追試大会終了ッ!」
 先月はじめの中間試験で散々なる赤点があちこちの教科で連発されたおかげで、なんとしても成績を──ひいては進学率を上げたい教師たちによる追試合戦が幕を開けた。あるものは幾度も合戦場に輪廻転生を余儀なくされ、修羅場の果ての解脱を目指していたが──ようやく最後のひとりが過酷な戦場を離れたのは、実に中間試験からひと月を経た、十一月が訪れてからのことだった。
「それっ、屋上まで一息に駆け上がれッ!」
 悪童のナリだけが大きくなっただけのオレたちが一直線で目指すのは、門外の喫茶店や粉物屋ではなく、校舎の屋上だった。ちいさな丘の上に建てられた、一世代半越えの創立年数と同い年の建物の屋上は、普段はかたく鍵で閉ざされているが、試験最終日の日没までのみ開放される。
 苦役から解放されて吸い込む、格別な空気の味を肺の奥まで染み込ませろ、と創立当初から伝わる教師たちのはからいだが──いまいましい大人たちではあるけれど、すくなくとも屋上目指して駆け上がる派閥の生徒たちは、大人にしてはやるじゃん、と思っていた。
 昼と夕との空気が混ざり合うぶんだけ、きんと冷たくなった手すりをおそるおそる握りしめ、教室よりはだいぶ涼しい空気をひとつ吸って、目をこらせば──秋になって濃さを増してきた夕暮れの橙、そのしたで影絵になっていく家々に、ひとつ、またひとつ、とあかりが灯っていく。白に黄、蜂蜜にオレンジと、それぞれ違うあかりと影のコントラストに、さっきまであんなにあざやかだった橙から、すこしだけセンチメンタルになる紫へと空の色は変わりはじめている。
 十一月の屋上から見た夕暮れ。
 なんだかしばらく、忘れられそうもないな──と背伸びをし、ふと横を見れば、本名よりも『詩人』というあだ名のほうがすっかり通りの良くなっている同級生が、日の沈みゆく西へと向けて、紙飛行機を飛ばしているのが見えた。
(……たしかに、そういうコトしたくなる気分にさせるよな)
 分かる気がする、とだけ笑って、もう一回、夕空に向かって深呼吸していたオレたちのもとに、下校時刻を知らせる校内放送に乗せて、メガホン越しに屋上からの退避を命じる教師のダミ声が聞こえてきた。

 ──……それが、今はどうなんだろう。

 終電までのカウントダウンがはじまる深夜まで、会社に居残って雑務に追われまくる日々。大人になったからにはまずは仕事を、と飛び込んだこの会社は、鼻先のニンジン無しでも二十四時間戦えなければ、まず人間扱いしてもらえないようなところだった。初々しい新人の頃には会社勤めとはそういうものだし、早く馴れなくては、なんて殊勝なことを思っていたが──世間の荒波に放り出されて五年も経てば、いい加減おかしいだろう、と気づく。
 やってらんねえや、と思いつつ、旧式のタイムカードを押して職場のある部屋を出る。勤務先の入っている灰色の雑居ビルは昼夜を問わず薄暗くて、非常口を示す蛍光灯だけが光源と陰口をたたきたくなるほどだが、それさえ寿命まぢかの点滅を繰り返している。誰か取り替えりゃいいのに、と首を振ったそのとき──いつもは閉ざされている扉が、うっすら開いているのが見えた。
 不用心だな、と思いつつ近づいて、ギシギシきしる重たい扉の先をちらり、と覗いてみれば、これまた寿命が近い、くらい蛍光灯に照らされている階段がある。
(こいつを上ってった先って、どうなってるんだろう)
 雑務に追い回されてほとんど寝てないし、可能なら一分一秒でも早く帰りたいはずなのに──そのときのオレは終電のことなぞすっかり忘れ、はじめて見たその階段を、好奇心の赴くままに、重くなった足取りで上っていった。
そして辿り着いた、行き止まりは──無防備にも程がある、と思わず呟いてしまったが、扉の鍵が壊れていたのを幸い、オレは一気にぐいっと開け放っていた。
「……うわ……っ」
 さほど広くない屋上に、あちこちのビルで歪められてヘンな角度から吹きつけてくる風は、十一月とは思えないほどつめたい。その先では、どんよりと重たい夜をぎらぎらと切りつけるように輝いているネオンサインや、他所の職場の窓のくたびれきったあかりが、オレが思っていた以上にたくさん点いている。
 夜を押しのけたがっている、まぶしい光。
 いっそ夜に負けさせてくれと願うような、けだるい光。
 あたたかさひとつない光だけに満たされて、夜が押しやられている景色を、視線も定められずにただ見くらべるしかできないでいたオレの、足は──……


(……そろそろかな)
 眼鏡をこまかく動かし、カレンダーと時計とを確認する。本日は十一月二日、時刻は四時半なり。オレはがたつく扉を開け、階段の手すりを掴み辿りながら、頭上の窓から注ぐわずかな残光だけをたよりに、築年数古稀越えの ビルの屋上へと出た。
 肩でついていた息が落ち着いたあと、よいこらしょ、と空を見上げれば、なんともあまやかな橙色がゆっくりと青をあわくしていくのが見える。ビルを囲む雑木林を隔てた先にある中学校の部活動の活気ある声も、今日は聞こえてこなかった。
 陽光が空を夜へと明け渡す営みは日々繰り返されているのに、どうして秋の日暮れだけはこうも、しみじみと懐かしいような、それでいてどこか遠くを想うことを誘うような色をしているのだろう──と、幾つになっても答えのない問いかけをひとりごち、あたりを眺め回していると、しんと静まる空気のさなか、赤や黄に色づいた葉の向こうにぽつり、ぽつりとあかりが灯りだしていく。
 その色にふと、夕餉のあたたかさを重ね合わせるたび、思わずにはいられないのだ。
(──あの夜、あわてて背を向けるなり駆け下りて、そのまま職場からも都会からも走り去り、ひたすら一目散に故郷めざして帰ってきたのは、きっと正解だったんだろう)と。
 屋上から見る十一月の夕暮れどき、それが誘うもの思い。
 今となっては遠き来しかたへと思いがめぐるたび、皺まみれの手で顔を撫で、ひとり安堵の笑みを浮かべてしまうオレが、たしかにここにいる。


                       #novelber Day2 屋上

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