見出し画像

文綴譚

「……また消えっちまってる」
 文箱を総ざらえし、瀬納萌(せのうきざし)は溜息をついた。当年とって二十と一歳、頬の血色もつやつやとしたのっぽの萌は、戯作者として目下売り出し中の身である。己でも版元にこれは、と思う種本や草稿を持ち込んでみたり、またあるときは人目を忍んでやりとりされる画に添える艶文を書いてみたり、と、書きもの三昧の日々を過ごしている。己が書いたものは、今は未だ屋台の掛け蕎麦代のツケの山を減らすくらいだが、いつかは──と拳を握りしめては紙の表裏もいとわず、反故紙さえも乾かしては筆を執る萌ではあるが──霜月に入ってから、ひとつ、またひとつと、版元に持ち込もうとたくわえていた草稿が消え失せていくのに気がついた。
 四日前には貸本屋も営む版元から持ち込まれた依頼で、年若い戯作者の筆硯を競わせるために編む粒選り本に寄稿するつもりだった『団栗侍武芸帳』なる滑稽物の一篇が、一昨々日には別の版元に持ち込もうと筆をはしらせていた『引潮亭夜語』なる艶物の一篇が、それぞれ文箱から忽然と姿を消していた。
 戯作者にとって、己の書きつけたものは、たとえ日の目を見ようと見まいと、だいじな──ほとんど我が子同然のもの。それを護るべく、文箱に掻い巻きをかさねてくるみ、その上から真田紐できつく結んでいたのに、夜明けて文箱を開けてみれば、昨夜納めたはずの『木犀綺譚』の草稿さえ、影もかたちもなくなっていた。
 褪せた黒漆の文箱の底をつくづく見つめ、萌はつぶやく。
「さてはいかなる神隠し、か──けど、吾の書いたものを、そう簡単にホイホイ持っていかれちまったんじゃ、こちとらおまんまの食い上げだ!」
 今夜こそ、正体見たり枯れ尾花と洒落込んでやる──
 決意を胸に、萌は、草稿ひとつ入っていない空の文箱を、昨日と同じように文机の上に、同じように掻い巻きでくるんでから紐で縛ってから、押し入れのなかにきゅうくつそうに身を潜めて待ち構えている。
 そして夜廻り番の声がすぎ、しんしんと夜の更けきるころ──……
「さてさて、とうに続きは書き上がっておるじゃろうか」
 袂と裾とに紅葉柄を染め抜いた振袖をまとうおかっぱ頭の童女が、つっかえ棒もなんのそので真っ正面から格子戸をあけ──うきうきとした表情で、文箱の上にちいさな手をかざした。
「神隠しの正体見たり!」
 がらりと押し入れの戸を開け、駆け出す萌。それに童女ははっ、と飛び退き逃げようとしたが、それより早く萌の手が童女の手首をしかと掴んでいた。
「……っ、離せ、離さぬか!」
「吾の書きつけたものを、ずうずうしくも持ち去ったのはお前か!」
 すると童女はぷい、とそっぽを向きざまに、ぷうっと頬を膨らませる。
「……どこの娘かは知らぬが、話さぬと言うなら番所に突き出してやろうか」
「突き出せるもんなら突き出してみい、小童風情が」
 おとなの萌に、童女はやけにませた──否、齢どころか位まで、もっとずっと上のもののようなくちぶりで悪態を返した。
「不意を突かれ、思わぬ不覚を取ったが、我はとある姫御前さまの一の臣にて使いのものぞ。おぬしのように、たかだか二十年ほど生きたものとは違うッ!」
 次の瞬間、萌の手はびっくりするほどきつい力で振りとかれた──のみならず、そのままざらざらの壁まで弾き飛ばされ、したたか背中を打ちつけた。痛みで息もつけず、それでもなんとか童女をにらみつけようとする萌の眼前で、
「姫御前さまのご所望につき、続きをもらっていくぞ──」
 童女は文箱を手に取ると、そのまましろい手をかざしていた。
 ──……が。
「ない」
 童女は目と口をあどけないくらいにまんまるくして、心底からの驚きの表情をありありと浮かべていた。
「おぬし、『団栗侍武芸帳』の続きはどこじゃ!」
「……」
「『引潮亭夜語』は? 海松女と外津清右衛門の恋の鞘当ての結末はどうなるのじゃ?!」
「……」
「ああ、それに昨日持っていった『木犀綺譚』なぞ、異形が木犀屋敷のあるじに収まったところで終わっていて、数多のおなごたちとの奇縁がどう収束されるか、姫御前がたいそう気をもまれるではないか!」
 文箱を手にいやいや、と首を横に振る童女へと、
「『団栗侍武芸帳』は一作読み切りのつもりで書いたから、続きを、と言われるのは正直嬉しいのだが──ほかのふたつは続きを書こうにも、前に書いたところを持って行かれては、己で何をどう繋げるつもりか分からず、筋がてんでんばらばらになってしまって、結局はろくな続きしか書けぬようになってしまう、のだが……」
 困ったように、萌は声をかけていた。
 すると童女は、今度はぽかん、とした顔に変わる。
「……知らなんだ。戯作者というのは後ろを振り向くことなく、ぽんぽん思いつくまま筆をはしらせて、草子の続きなぞあっという間に……それこそ次の日には書けているものとばかり思っていた……」
「それで徹頭徹尾しゃんと立つものが書けるのは、戯作の申し子のような作者たちだ。吾など……書いた端から読み直さねば、己で何をどう書いたのか、これから先をどう繋げるつもりで書いたかさえ忘れちまうし、『引潮亭夜語』や『木犀綺譚』のような、ひとつふたつの因縁が縺れ、絡み合うばかりではすまぬ話なれば、なおのこと」
 そう話す萌を、童女は興味深く見つめていたが。
「しかし我としても、手ぶらでは帰れぬ……これより東、紅葉山に棲まわれる御館さまが見そめられ、霜月の黄昏風にて絡め取られし姫御前さまの、かそけき憂い顔さえきよらかなれど──やはり御館さまとしては笑みのひとつも見たいと、扇の陰でやきもきしていた日々のさなか、ようようひとつ笑顔を見せられたのが、おぬしの『団栗侍武芸帳』なのだもの」
「そ、そうか?」
 思いがけずうれしい言葉に、萌は唇の端をくつろがせ、こそばゆそうに人差し指で頬を掻く。
「うむ。姫御前さまは、団栗の背比べの茶ノ助と八之進が、武士のいのちの刀ではなく、そこいらに落ちている団栗の投げつぶてで悪者をばったばったと倒していくのが、よほど痛快だったようだ」
「……そ、それは嬉しいな」
「しかしおぬしの話を聞くに、『引潮亭夜語』と『木犀綺譚』の続きを所望するにしても、我らのもとにある草子がなければ書けぬ、のだな……どちらもなんとも続きが気になるところで終わっていて、姫御前さまも、隣でお相伴にあずかる我もまた蛇の生殺し」
「あの、それはとっても嬉しい言葉、ではあるんだが──……」
 いずれもまだまだ筋書きの外面をなぞっただけの、ほとんど下書きにちかいもの。その段階で続きを望まれるのは嬉しい反面──このふたりの目に、こころに適うものが書けなかったらどうしよう、という圧を、同時に萌は感じてしまう。
「なんならおぬしをそのままさらって、御館さまのお膝元ででも書かせようかと思ったが──あんまり姫御前さまがおぬしの書いたものにうつつを抜かすと、それこそ御館さまの悋気がおぬしの身も書きものも、はては我ごと館も山も、ことによったら凪ぎ焼き払ってしまいかねぬ」
 眉間に皺を寄せる童女に、萌はぞくりと身震いをした。
 見た目は浮世の人々と変わらぬいでたちではあれど──妖しの側に籍を置くものたちの、ひととは間尺のあきらかに異なる界に身を置けと言われても、胆力が足らぬ己はとうてい生き延びられはすまいと、萌には身に沁みるほどに感じていた。
「それにとうの姫御前さまも、己の来しかたに思い馳すなら、斯様な手荒き真似は望まぬであろうしの──おぬしの文箱から持っていった草子に書かれている、着物の柄や髪型やらのあれこれも面白がっておったし……かつての巷を懐かしみながら、おぬしの書くものを読んでおるのかもしれぬ、と思わばこそ、おぬしをこのまま巷に置いておき、草子の続きを書かれることを願われる、そのような気もいたすのだ」
「あの」
 萌は振り向き、再び押し入れに頭を突っ込む。ほどなくして、その奥から持ち出してきたのは──朱塗りの文箱だった。
「吾の書いたものは、もとの文箱に戻して欲しい。そのかわり──姫御前さまとあんたがご所望の続きはこちらの文箱にいれとくよ」
「いいのか?」 
 ぱあっ、とあかるい笑顔を見せた童女に、
「そう筆が速いほう、ではないし、食っていくための文も書かねばならぬ身だが……そんなに楽しんでもらえたなら、続きを書く張り合いもあるってもんだ!」
 萌はそう答えてから、手にした朱塗りの文箱に、すこしだけしんみりとした視線を向けた。
「それに、この文箱……吾に戯作のたのしさを教えてくれた姉のかたみだが、押し入れの隅でずうっと眠らせておくよりは、姫御前さまとあんたのための文箱ってことにして使うほうが、ずうっとよいような気もしてな」
「か……かたじけない!」
 童女はぺこり、と頭を下げてから、神妙なおもざしで、萌の文箱をかざして告げる。
「紅葉山の姫御前さま、ならびにその一の臣たるかえでより、瀬納萌の綴りし草子を返納す。そのうえで新たに『団栗侍武芸帳』ならびに『引潮亭夜語』と『木犀綺譚』の続きを、そしてさらなる新たな物語を所望するものなり──……」
 おごそかに告げられたその言葉は、いささか多き望みばかりではあったけれど。
「謹んでお受け致します」
 萌はきちんと正座をし、深々と頭を下げながら答え、そして──……

「……あれ」
 翌朝。
 畳の上で蒲団も敷かず、伸びるように横たわっていた萌が身を起こすなり、机に並ぶふたつの文箱が目に入った。はっ、として駆け寄ってみれば、己が使い慣れた文箱には、失せた草稿の束が、四隅整え戻されている。
「昨夜のあれは、夢ではなかった……か」
 童女が去ってから、緊張が解けてどう、と倒れ伏したあと、とろとろと微睡んだともなんともつかぬ寝不足の背を、萌はゆっくり、おおきく伸ばす。
 黒と朱の、ふたつの文箱。
「まずは戻ってきた草稿をもとに、『引潮亭夜語』と『木犀綺譚』を書き終えてしまうとするか。それから『団栗侍武芸帳』の新しい旅を書いて……ああ、そうそう、いずれ書いてみたい戯作の題も、いまからちゃんと書き留めておかないとな」
 真新しい紙に萌が墨痕あざやかに書き留めた題は──『紅葉山之神隠姫』。
 己の文箱へとあらたに納めた七文字を見つめ、くす、と萌はたのしげに笑っていた。


                    #novelber  Day9 神隠し

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?