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桂香いざなう

(伯父さまは、あちらね……)
 世ごとうつろう葉の色をよそに、褪せぬ常磐の木々にぐるり囲まれた本家。何百年ものあいだ、何十代と続く本家は、その屋敷の以上に庭の広さに来訪者はまず息を呑むことになる。植栽が成す迷図にも似た庭ながら、齢七つの綾香がただひたすらに走り抜け、伯父のもとへと辿り着けるのは──その庭の西の最奥にある、金木犀の香があるからだ。
 他所の庭に咲く金木犀たちよりも、ゆうに二抱えはおおきな幹。本家から離れた里に咲く金木犀すべてが花と香のさかりを終え、秋もようよう暮れゆく時分になってから、本家の庭ではようやく深緑を茂らせる枝葉の隙間を埋めるようにして、あまやかな金茶色のちいさな花が咲いていく。これほどおおきな樹ならば、その芳香も他と比しようがないくらい濃密なのだろう、と余人は思うかもしれないが──本家の庭に咲くこの金木犀はその香をどこかはかなげに、しのびやかに漂わせている。
 そして綾香にとってはその金木犀の香こそ、伯父と分かちがたく結びつき──伯父の身より漂い、その居場所をそれとなく教えてくれる、ゆかしき香でもあった。
「伯父さま」
 痩躯の背を向けたまま、金木犀のもとに佇む壮年の男性に、綾香ははずんだ声をかけた。
「綾香……ひとりで、ここまで?」
 驚いたように黒い目を見張り、かれは綾香をつくづくと見つめる。
「うふふ。わたし、学校にだってずっとひとりで行っているのですもの。伯父さまのお庭くらい、どうってことないわ」
 同じ年頃の子どもよりだいぶん臈長けた綾香のおもざしに、年相応の稚気が漂う。それへとかれはやさしい笑みを傾けたあと、走るうちにほつれてしまった綾香の髪を撫でた。
「そうだね、綾香はもう十歳──われら一族の血統の証たる、白銀の髪を鴉の羽色であざむきながら、世に住まうもののふりを覚えることも必要な年齢にまでおおきくなったのだね」
 かれの手のしたで、綾香のつやつやと長く、射干玉よりなお濃い黒髪はしだいに、黄昏の残光にも似た白銀へと色を変えていく。綾香はそんなかれの手のひらのつめたさを心地よく思いながら、もとの色を取り戻していく己の髪を眺めている。
 ほどなくして、一分の隙もなく本来の髪色に戻った綾香は濃藍色の目をかれへとまっすぐに向け、かれんな唇をゆっくり開いた。
「伯父さまがそうして髪を撫でながら、わたしに世のひとになりすますためのいろいろなことを教えてくれるから、わたしはこうしていられるの。
 でも──……」
 そこで綾香は口をつぐみ、伯父と、その背後にある金木犀を見くらべた。
 写真でしか知らぬ父よりもずっと落ち着いた雰囲気の伯父は、本家の当主らしい落ち着きと、やさしさとを常にたたえている。傍目には見た目よりずっと多く映るだろう銀髪が、その身を養う糧にヒトの血を欲す、妖しのものの証であろうと、余人の誰が思うだろう。
 いかほど長命であろうヒトさえ及びもつかぬ、ずっと永き刻を生きる伯父が──いよいよ深まり尽くした秋ただなか、庭の金木犀が盛りを迎えるころになると、いつもの落ち着いたやさしさ以上に、かなしみをたたえていることに、幼いころから常に綾香は感じていた。
「でも──……ほんとうは……」
 その先に続けたかった言葉を、かれのさびしげな背中を見ていた綾香はゆっくり、ゆっくり、細い喉の奥へと押し込めていく。
「どうしたんだい、綾香?」
 そんな綾香へとかれが向き直り、その目を覗き込むように身を屈めてきた。背の高い伯父と話をするのに、すこし背伸びが必要ではあるけれど、それさえ厭うことなくしあわせだと思っていた綾香。けれどいま、思いがけず近くにある、かれとの顔のちかさに、頬は正直にぽうっ、とあかく染まりゆく。
それを恥ずかしく思いながら、とどめる術がないまま──
「……ねえ、伯父さま。どうして伯父さまは、この金木犀が咲いている間は……だれかの血を一滴もその口にせず、この樹のもとを訪れては、ただかなしそうに見つめているの?」
 それでも綾香は、ずっと気になっていたことを尋ねていた。
 かすかにふるえていた、おさない声。そよ、と吹く風が、金木犀の香を運びざまに綾香の声をさらっていくさなかも、ただ黙していた伯父。
(まだ子どもだから、伯父様はきっと、ちゃんと答えてくれないかも……)
 やっぱり聞かなければ良かった、と綾香が唇をきゅっ、と噛みしめ、うつむきかけたそのとき、
「この金木犀はね、私が……いまでも、どうにかなりそうなくらいに愛しているひととの、忘れられぬ思い出のなかにも咲いているから」
 漆黒の瞳をうるませ、綾香の──その向こうに別のだれかを探しているまなざしを向けながら、それでも伯父ははぐらかすことなく、綾香へとそう答えていた。

「私たちの住まうこの地はもとより、病を得た人間たちが療養のために留まる地だった。空は青くひらけ、緑豊かにして空気も美味しいところにきて、都会はおろか、人里よりもだいぶん離れているぶんだけ、世の煩わしさに隔てが置かれて──それゆえに、来たときよりもずいぶんと良くなって、もと暮らしていた場所に帰ってい人間もいた。
 けれどなかには、もう余命いくばくもないなら、喧噪などない、おだやかな地で過ごしたいと願って、この地を訪れるものもいて──志織も、そんなひとりだった」
 かれはそこで立ち上がり、金木犀へと向きなおる。あらゆる線をゆるりと光でぼかしゆく黄昏のなか、いつもははかなげな金木犀の香が、ふわりと立ちのぼったように綾香には感じられた。
「齢十八といえば、世にいう娘ざかり。見たい景色もしてみたいことも、永き刻の流れに倦み飽きつつある私にはおよそ想像もつかないほど、たくさん抱えていただろう。そんなはなやいだ季節を病にさんざん食い荒らされ、命脈ももはや尽きようとしているのに──志織のたたずまいはあかるく、たとえ、いつ尽きるとも知れぬ余命を過ごすために訪れた地であろうと、最期まで病に心根まではくずれさせまいと、つとめて気丈にふるまっていた。
 ……女とは、つきせぬ若さへの永遠を望む代価に、己の血肉をなにひとつ躊躇わず差し出すあさましきもの。そうと思い込んでいた私を、志織はそのたたずまいだけで──したたかに変えさせられた、そのひとつことが痛快だったからこそ、こころ惹かれた……いや、今なお、こころ惹かれているのかもしれない」
 いつになくはっきりとした声音で言い切っていた伯父を、綾香ははっ、とした面持ちで見つめ直してしまう。
「だから、私は──出逢って三月とたたぬうちに、志織への想いをありったけ口にしていた。
 そのあかるさが恋しくも、いとおしくてならないと。
 どうか私のもとで、ともに過ごして欲しいと──私は膝をついて請い願っていた」
(誇り高い伯父さまが、膝をついて、なんて……)
 皺も埃も寄せつけぬほど手入れの行き届いた伯父のズボンを、綾香はじっと見つめた。
「そんな私の求婚に志織は最初、輝かしい未来の約束されている大きなお屋敷の次期当主さまが、と首を横に振ったよ。でも、私は──この手で掴んだ志織の手を、そんなことでたやすく離したくはなかったんだ。
 どれほどつたない、ただ想いのままだけの言葉だったかしれない。けれど、これほどまでに自分がひとに言葉を尽くすなどと思いもしなかった。そして、ひとたびとった志織の……肉付きもうすくなり、ほとんど細工もののような手を離したくないと、握りしめた己の掌の意外な熱にも驚かされた。
 そんな私に押し切られ──でも、憎からず私を想っていたと告げながら、志織は私の求婚を受け入れてくれた。そのときの……あまい夢の香に酔う、かわいらしく、はにかんだ顔は今でも瞼の裏に焼きついて離れないでいる」
 葉陰の金木犀を、その香が誘う追懐の──運命のひとのおもかげを探すように、かれはゆっくりと顔を上げる。
 黙りこくってしまった綾香のことなど、もはや忘れてしまったかのように。
「成就は、霜月にはいってもなおあまやかな香りを放つ金木犀のもとで。そう告げた私に、志織は頬を染めてうなずいてくれた。
 そのときの志織が、あまりに生き生きとして見えたから──私は志織が、その命をかじり尽くされるほどの病を得ていたことを失念していて──ともに、永久を過ごせると信じきってしまっていた。
 しかしそれは慢心であると、驕りでしかなかったと、私はすぐさま思い知らされた。
 世間並みの佳き日は待たず、いずれともに永久を過ごしたいと希うひとがあらわれたときのために、私がひそかにあつらえていた純白の花嫁衣装を、まとう志織。思いがけぬはなやぎに瞳をうるませていた志織の、そのうつくしさに見惚れ、掌で頬を包み、永遠を誓う証のくちづけのさなか──……志織は、私の腕のなかでこときれてしまった」
 ふつり、とかれはそこで、話すのを止めた。
 そんな彼の背に濃藍色の目を向けたまま、綾香は──唇を噛みしめる。
(わたしは今日、とっておきのレースのハンカチに、金木犀の香水をそっとつけてきたの。
 伯父さまは金木犀がお好きで……だから、金木犀も伯父さまにその香をまとわせているのだと。
 けれど──伯父さまのなかには、この花と香りに結びつく、忘れられないひとがいる。
 そしてわたしはどこまでも、ただひとりの弟が遺した姪でしかなくて……わたしがずっと抱えている、ほんとうの気持ちに気づかれる日なんて、きっと……)
 まだ血の味も知らぬ身でありながら、すでにかすかな血の気配をにじませ──それでも綾香は金木犀の追懐の香を総身にまつわらせ、ひとりきりのもの想いへとしずんでいく、いとおしい伯父の背から視線を逸らせずにいた。


                    #novelber  Day8 金木犀


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