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昔葉ヲ想フ

 黄昏どきを告げるかぼそい光が、障子紙の色を淡く落とす。それをしおに、筆谷鴻志郎は部屋の隅に吊された鬼灯提灯を点けた。乾燥させた鬼灯の実を火袋にし、手すさびに仕立てた提灯をいくつも連ねて重なりあった、ほのかな橙色が照らすのは──すすけた畳の目が見えぬほどに撒き散らされた、おびただしい紙片と文箱の群だった。
 書きつけられた手蹟もさまざまな、それらの群には真新しき白は一枚とてない。縁は褪せた茶に、紙そのものも枯れゆく葉さながらに染まっていた。
 ──文を願えば、訪れる。
 ふと脳裏をはしったその一文こそ、かつて詩文を綴る者としての己の惹句であったことを思い出すなり、鴻志郎の口許に浮かんでいた、ほろにがい笑み。それを振り除けようと無造作に手に取っていた一枚を、鴻志郎は眼鏡の奥の目を凝らし、じっと見つめる。
  新聞の切り抜きに映るわかき己は、自分はいくつになっても詩文を綴っていると、そう信じて疑いもしていなかった。
「文を願えば、訪れる──そう、自負していた時分もあったな」
 鴻志郎は呟き、ふっ、と息をつく。
 ひとつの詩をかたちどるモチーフをふわりと思っただけで、それをおおきく育んでくれるひとつの文が、向こうから鴻志郎のもとにやってきた。またさらに、ひとつの物語の鍵を探そうとするよりはやく、イメージをつかみ取るための的確な言葉が訪れてきた。
 それをどれほどわかき鴻志郎はよろこび、無邪気に紙へと落とし込んでいったか。
 そして、そんな鴻志郎の書き連ねた詩文に紅涙を絞ったという言葉をもらうたび、どれほど鼓舞され、また次もよいものを書こうと奮起してきたか。
 けれど──それはもはや、すべて過去の話。
 かつて、等しく点をうつように詩文を世に問うていた鴻志郎は、あるときを境にいっさいの詩文を綴ることを止めた。何ひとつ説明のない擱筆は、鴻志郎の詩文を待ってくれる読者からしたら、あまりに過ぎるほど唐突であったことは己自身も分かっている。
 だが、鴻志郎は──あの秋のゆうべ、いつものように何気なく、生まれたときからずっと暮らしている山際の家に灯をいれたそのとき──ふと、己に問うてしまったのだ。

 己はいつかの落葉の季節に、校舎の屋上から飛ばしていた紙飛行機に綴っていた未成の詩や物語の断片の群れより、熱を帯びたものを書いているのだろうか? と。

 ──……それに鴻志郎は目をつぶることも、まして明確なる答えを打ちだすことができなかった。それこそが欺瞞だ、赦せない、と誰に語ることもなく、鴻志郎はただひとり黙したまま筆を擱き──以後、詩文を綴るための筆をふたたび執ったことはない。


「……手にした筆で詩文を織り成すことに、ひとたび背を向けてしまったのだから、もはやそれにまつわる紙片など反故のはず。ならば、枯れた紅葉を手向けに、焚きつくして灰にしてしまってもよかったはず──それなのに、本卦還りをとうに過ぎた今でも、そうすることができないでいる、というのは、傍から見たら未練がましいことこのうえないのだろうな」
 目を細め、室内に撒かれた紙片の別の一枚を鴻志郎は手に取る。
意中のひとにそのままの想いを伝えるのが気恥ずかしくて、なんとかしたてた掌編の下書き。またさらに別の紙片に視線を転じれば、それぞれの筆跡と物語の運びかたで誰が書いたか一目瞭然の、仲間うちでの即興リレー小説の断片。
 あこがれの詩人にならって綴ったあますぎる詩や、三十一文字にどうにか押し込めたような歌のひとくさりなど──いつもは文箱の奥底深くに沈むことを余儀なくされているこれらの言葉たちを、鴻志郎は秋のゆうべに総ざらえしている。
 文箱にひそむ言葉たちがつたなく青く、それゆえに瑞々しく映ればこそ、とうに彼方へと過ぎ去ってしまい、二度と取り戻すことかなわぬ日々を鴻志郎につきつける。
 ──それでも、この紙片の群を老いてなお手放せずにいるのは。
「懐かしむことくらい許してほしいと……他ならぬ己が願っているのだろうな」
 せまる夕闇に、あかるさを増す鬼灯提灯。それにかざした紙片に、陽光の名残のようにのこされた文へと、鴻志郎はとおい、とおいまなざしをひとり向けていた。

                      #novelber  Day5 秋灯

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