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優しいって何だよ、

「優しいから、すぐ新しい彼女できるよ」

彼女に振られて、別れる時、そんなことを言われた、という人がいた。「優しいって何だよ、他に何もない時に出てくる言葉だろ」なんて言っていた。そうかなぁ、と思ったけど、わかるような気もした。確かにここでは、優しいだけじゃ足りなかった、ってことなんだろう。優しいって、本当、何なんだろうな。

最近読んだ「友だち地獄」(ちくま新書)という本で、社会学者の土井隆義さんは、「対立の回避を最優先にする若者たちの人間関係」を「優しい関係」と呼んでいた。「大人たちの目には人間関係が希薄化していると映るかもしれないが、見方を変えれば、かつてよりもはるかに高度で繊細な気くばりを伴った人間関係を営んでいるともいえる。(同書17頁)」繊細な気くばりをすること、その上で周りの人を傷つけないように本音を言わないようにして、表面的なつながりを維持すること。これが現代の優しさ、確かにそうだと思う。自分を偽らない本当の優しさ、なんてものは幻想にすぎないのかもしれない。それでも、本当の意味で優しくなりたい、と思ってしまう。人と、ちゃんと深く関わった上で「優しい」人になりたい。

人に優しくするのなんて結局自分のためじゃないか? 中学生の頃はよくそんなことを考えた。自分を好きになるため。自己肯定感を上げるためには、自分よりも下の人を見つけてこの人よりマシだって思うこと、正直それが一番手っ取り早い。なんかすごく性格悪そうなこと言った。でも実際そう。自分の位置は何も変わらないし、後からそんな自分がまた嫌になったりするけど、とりあえず、一時的には。かわいそうだから優しくする、優しい自分が好き。そういう風に、見透かされていないだろうか。かわいそうじゃなくても、結局、優しい人だって思われたいから優しくしてるだけじゃないか。今まで一度でも自分が誰かにちゃんと「優しい」って思ってもらえたことがあっただろうか、とか。ごちゃごちゃ考えてよくわからなくなってしまった。

自己肯定感は、もっと他のこと、自分にできなさそうなことを頑張ることで上げることにした。中学生の時、演劇がやりたかった。人前でハキハキしゃべることが苦手だったから諦めた。でも舞台に立っている友達を見て、羨ましくて、悔しくて、高校でやってみることにした。頑張って克服した達成感が凄かった。それと、純粋に楽しかった。私にとって演劇は手段でも目的でもあったんだと思う。でもそれだけじゃ足りなかった。できないことはまだまだたくさんあった。頑張る、以前に、普通の人が普通にできるようなことができない、みたいな。考えすぎるか足りないかのどっちかで。不器用すぎて人をイライラさせた。ちょっとした失敗で人に迷惑をかけて謝るたびに自己肯定感が下がった。それを反芻してしまう癖にとらわれてまた自己嫌悪に陥った。自分よりも下の人を見つけてこの人よりはマシだって思うことはもうできなくなっていた。人の良いところばかりがやたらと目立って、輝いて見えた。少なくとも、同じ学校には自分より下の人なんていないような気がした。そもそも上とか下とかそういう発想自体がそぐわなかった。他の場所で自分より生きづらそうな人を見つけたら、それは、自分が苦しくなった。優しくないくせに。                    今はそれほど自己肯定感は低くない。周りが私へのイライラを見せないから、ある程度「優しい関係」の中にいるから、っていうのもあると思う。けど、それだけじゃなくて自分のネガティブ思考も少しずつ変えた。文章を書くことですっきりしたような部分もあった。自分が憧れた、器用で素敵な人に少しでも近づけるように努力した。程遠いって感じではなくなった気がする。表面的には、かもしれないけど。それから、人の良いところを見つけられるところと、人の生きづらさを他人事だと思えないところが自分の良いところだとでも思うことにした。生きづらい誰かの自己肯定感を上げてみたくなった。

「子どもたちと、自己肯定感を高め合えるようなコミュニケーションをとりたいです」        

去年、バイトの面接でこんなことを言った。児童相談所の一時保護所。短い間だったけれど、色んな子どもたちと関われてとても良い経験になった。現場を見る前は勝手に暗い子ばかりだというイメージを持っていたけれど、全然そんなことなかった。元気な子が多かった。色々な事情を抱えていることは確かでも、そこにいる子どもたちに対して、あまり「かわいそう」という感情は持たなかった。                              ある時、もうすぐ退所する女の子に、「こんなどうでもいい人間だけど忘れないでね」と言われた。よく笑う明るい子だった。とても素直に見えた。でも他の子と比べると少し大人びていて、遠慮がちな気もした。「優しい」子なんだと思う。笑顔の裏に言いようのない切実さを抱えている感じがした。人の記憶に残りたいって強く思って、ちょっと言葉を交わしただけでもああ良いなって思えた人ともう一生会えないかもってそういうことがつらかった私に似ていると思った。どうでもいい、なんて言わないでほしかった。私にできるのは、どうでもよくないよって言って、ぎゅっと抱きしめて、良いところをたくさん褒めて、忘れないよって約束することだけだった。あれであの子の自己肯定感は上がっただろうか? そんな単純なものじゃないかもしれないけど。一時的なつながりだった。それでも、良い関わり方ができた、充分だ、って思う。出会えてよかったってお互いに言えて、しっかりバイバイって言えた。忘れないと思う。忘れたくないから書いている。でも、あの子には私のことなんて忘れちゃうぐらいこれから色んな素敵な人に出会って素敵な思い出を積み重ねていってほしいと思う。この気持ちは優しさだろうか。……もう、別に何だっていいような気がしている。

あの子は優しい子だった。良い子だって、他の先生も言っていた。でも、本当は、そうじゃなくてもたくさん褒めたい。

高校生の時苦しみながらも楽しく書いた脚本の、言葉が嫌いな登場人物が、こんなことも言っていた。

「ほんとはね、普通でも普通じゃなくても、かわいそうでもかわいそうじゃなくても、どんな人でもみんな、生きてるだけで色んな人に感動してもらわなきゃだめなんだよ」

「だって、生きてるってすごくない?」

「もうね、生きてる人全員、褒めて回りたいよ、ついでに私も褒めてもらいたいよ」

ただの私の代弁。今も思っていること。生きるって、なんか当たり前みたいになってるけど、馬鹿みたいに難しい。みんなよく生きていられるな。色んなもの抱えて。奇跡だよ。なんで生きてるんだろう。何か目的がなきゃいけないような気がして、でもそうじゃなくて、なんか色々あったけど生きててよかったねってそういう瞬間が誰にでもあるはずで、それは絶対にあってほしくて、そういう時にちゃんと自分を好きになれるんじゃないかって。頑張らなくても優しくなれなくてもいいんだって言いたくて。生きてるだけでえらい、なんてよく聞くし少しもオリジナリティないけど、まあ、ちょっと違うかもな、別にえらくなくてもいいっていうか。

自分を肯定するためにはまず生きることを肯定しなくちゃって。それが、「優しい関係」とは違った関係性の中でできたらいいなって、そこで自然と、本当に優しい言葉が生まれたらいいなって。意外と簡単じゃないけど、まだ曖昧なところもあるけど、多分、それだけ。


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