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TRY トライ 1983/07/30

長男は、昭和58年の今日、東京・板橋区の婦人科医院で産まれました。

誕生予定は、8月20日だったのですが、無類の映画好きの奥さんが、大きなオナカを抱えながら、東京・有楽町で上映されていた「スターウォーズ」を観に行ったものですから、きっとその大音響に驚いたのでしょう、お産は三週間も早まりました。

当時、私は、茨城県水戸市にある地元資本の企業に採用されたばかりで、奥さんとは離れて暮らしていました。

初めてその子の顔を見たのは、産まれてまだ三日目位だったと記憶しています。文字通りの真っ赤なクチャっとした可愛い顔の赤ちゃんでした。

普通、乳幼児は、両の手をしっかりと握っているものだと聞きます。しかし、この子は、いつも手の平をパーの状態に開いてスヤスヤと眠っていました。それを見る度「お金は貯まらないね」と、新米の両親は、顔を見合わせて笑ったものです。

それからしばらく、水戸・東京間の常磐自動車道を、自家用車を飛ばして通う、父親の姿がありました。

まだ奥さんだけが残って住んでいた東京のマンションから、近所にあるその婦人科医院に早朝、様子をうかがいに顔を出し、そこから水戸へと毎日通勤していたのです。

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院長先生も看護師さんも皆さんとても優しく、
何より病院食がとても美味しかったと、今でも語っています。

奥さんに、「私が寂しくて泣くと、赤ちゃんも一緒に泣くんだよ!!」と教えられました。そんなふたりがとても愛おしく、何度も後ろ髪を引かれたものです。

男の子だったので、東京で草ラグビーをしていた私と、そのラグビーのファンだった奥さんとが相談して、名前をトライ(TRY)にしようと、当て字の「渡来」と「斗来」を準備していました。そして、”あだ名”も「とっくん」と決めて、産まれた瞬間からもうふたりでそう呼んでいました。

なので、産婦人科の院長が”揮毫”してくれた彼の手形・足形付きの色紙にも、しっかりと「渡来くん」と書かれて、残っています。

奥さんはとてもその名を気に入ってくれたのですが、親戚の反対に合い、心が揺らいだ私の判断で、結局は別の命名となりました。

しかし、そんな顛末を経てもなお”あだ名”だけは残り、今日が誕生日の彼は、私たちには、今でも「とっくん」と呼ばれています。

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セプターが全盛だった私たちの草ラグビー時代。スパイクもアルミのネジ式。


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