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父と「八千代おこし」・・・

故郷の夢を頻繁にみる。

望郷の想いが特別に深いという訳でもない。小学校の通学路のドブ川を流れる笹舟だったり、母親が干していた洗濯物が風に揺られる光景だったり、何気ない日常が浮かぶのだ。

故郷は人口3万人弱の小さな街。

海と山の自然に恵まれ、時間がゆったりと流れる場所。私は高校生までこの地に住み、グラフィックデザイナーを志して上京した。

当時まだ国鉄だったその線には特急・急行という種別があって、帰省には結構時間を要した。

上野から電車に乗り運よく座れれば、基幹駅あたりまでは、ぐっすりと眠っている時間帯。目指す駅に徐々に近づく頃から、乗車してくる客の言葉のアクセントが独特の尻上がりに変化する。

降車駅に到着する頃ともなると、可愛らしい顔をした女子高校生までもが、「そうだっぺ」「こうだっぺ」という会話となり、軽いカルチャーショックを受けたものだ。

加えて、現在は廃業した加工製紙工場の出すオナラのような独特の臭気が、決まって寝ぼけ眼の私に、故郷への到着を知らせた。

常磐線・高萩駅「konitarouの気まぐれ日記」から

この街に、「八千代おこし」というお菓子がある。

おこしと聞くと堅いお菓子を思い浮かべるだろうが、「八千代おこし」は、やわらかい口当たりが特徴の品だ。

もち米を蒸かしたものを薄く広げて天日で2週間ほど干し、回転式の釜で炒り上げ、ハゼと呼ばれる状態にし、水飴と砂糖の溶液を熱し煮詰めたものと落花生を加えて混ぜ合わせ、薄く延ばして形を整え、冷やして固めて作られたもの。

大阪で開業していた沼野常次郎というひとが、大正天皇の即位記念の菓子として考案、「君が代」の歌詞にちなんで命名したのだそうだ。店は大正2年に、私の故郷のこの地に移り、以来、守り続けているという。

そんなお菓子だから、我が家では「ハレの日」にならないと出てこない貴重な品だった。


父は私が14歳の時に、胃癌のために物故した。

享年60歳。常磐炭田の端の炭鉱に、炭鉱夫として定年まで勤め、退職金で建てた家に数年住んだだけの短い生涯だった。

最後の頃、食事も喉を通らなくなった枕元には、薬が山と積まれ、薬を食べて生きているようにも見えた。それでも生への執着があったのだろう。お米で出来たこの「八千代おこし」を買ってこさせて、鼠が一粒一粒大切に齧るように食べていた。

ある日、高校生だった姉と中学生の私が、父の枕元で、このお菓子のことで姉弟喧嘩をした。

姉が怒って部屋を出て行った後、それまでじっと黙ってふたりの会話を聞いていた父が突然怒り出し、「とうちゃんはお前らが思っているような病気じゃぁないんだぞっ!!」と、消え入るような声をやっと絞り出して、枕元にあった果物ナイフを畳に突き刺そうとした。

しかしながら、衰弱してミイラのようになっていた父の腕力は、ナイフをはらりと落ち葉のようにそこに落とすので精一杯だった。

「あぁ~こわい、こわい」(”こわい”は茨城弁で”疲れた”という意味) と、彼は2度だけつぶやき、大儀そうに布団に包まり、それから、まったく身動きがとれなくなってしまった。

病が不治であることを私は知っていた。それは家族全員の周知だった。ただ、父だけは、家族が病名を知らないと思っているようだった。私は、自責の念から、しばらく枕元を離れられなくなっていた。

この上品な「八千代おこし」を食べると、そんな50年も前のもの悲しいひとときを想い出す。

その姉も、かれこれ20年以上も前に父の元に旅立ち、私たち姉弟は、この美味しい「八千代おこし」をめぐり、奪い合いの喧嘩をすることもない。

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