365日目に挟んだ栞が、わたしに教えてくれたこと


『エッセイ』の夢を見たことがある。

なんとなくではない。間違いなく、それだった。


風で飛ばされてしまいそうだったから、わたしは一枚の紙を挟んでいた。



今日、わたしはnoteを毎日更新して、365日目だ。ここでやっと、わたしは明確に"伝えたいこと"ができたので、書き始めている。

"自分の"エッセイばかりを書いてきた。自分の満足のためがほとんどだったと思う。わたしに好きなものは少ない。やりたいこともよくわからなかった。お手本になんてなれなかった。それでも生きて、生きて、生きていた。救われるのはいつも、わたしばかりだった。

生きているからわたしはここで書いているし、生きているからあなたも読んでくれているのだと思う。目を瞑ったら出てくるそれに、名前をつけるとしたら。


「あなたは、誰と生きているだろう。」

なんとなくでいい。考えながら読んでくれたとしたら、わたしは心から涙を流せる。



父に言われていたから守ってきたわけではない。だって今までのわたしは、これっぽっちも"続かなかった"から。けれど、染み込んでいた気もする。


「父さんは、どんなことがあっても味方だ。」

根拠はないけど、背中をさすってくれる言葉がある。誰も自分の代わりにはなれないのに、誰かが代わりに生きてくれる言葉がある。


「父さんが焦らせてしまったね」と、わたしが27歳になった今も苦しそうに、言う。その姿を見て、何も言えなくて。

父はたまに、わたしの家に来てわたしの好物の焼きそばを作ってくれる。例えようもないその味、いや、例えたく、ない。だって例えようとしたら「父が作る焼きそばの味みたい」と言ってしまいそうだから。この感じが、伝わるだろうか、伝わってほしいな。

心に書いて、とどめて。父のしわしわの声が今も聴こえてくるから、わたしはこんなにも。


「エッセイを書いているんだ」と、わたしは父に言ったことがある。それを聞いただけでは父は何をやっているかよくわかっていなそうな顔をしていて。別に、だからその後言ったわけではないけれど、わたしは「"毎日"書いているんだ」と続けた。すると父はわたしの肩に手をゆっくりと乗せ、「それはいいことだ」と、大笑いした。


「継続は力なり」という言葉がある。
父の、好きな言葉だった。

わたしは昔、この言葉が格好わるいと思っていた。

学生の頃、ちょっとの努力でいい成績を出すのが格好いいと思っていた。積み重ねていく人を、心のどこかで蔑んでいたのだろう。過程なんて見られないのであれば、楽をしようと思った。

そんなわたしの心に気づいていたのだろうか。それとも元々、父はそういう人だったのだろうか。"何かを続けること"の話を、わたしは繰り返し聞いてきた。


父は本当に、一日も人生を、生活を休まなかった。
どれほどの気持ちで家族を、自分を支えてきたのだろう。何十年も、それこそわたしが生まれる前から、朝から深夜まで働いていた。わたしが起きたらもう父は出かけていて、わたしが寝た後に父は帰ってきていた。それもあって、わたしは学生時代、父との思い出が少なかった。でも、思い出は、ある。


父と一緒に山でカブトムシを採りにいった。川に行って、目一杯遊んだ。高校受験も大学受験の時期も、父はわたしよりもそわそわしていた。

「頑張りすぎるなよ」と言って、父は次の日も仕事があるのに、夜遅くまで勉強をしていたわたしがベッドに入って眠り始めるのを確認してから寝ていたのを、知っている。「早く寝たらいいのに」と心の中で呟いていたわたしに「そうじゃないよ」と未来のわたしは言いにいきたい。

父は月に数回しかない休日を、そうやってわたしのために使っていた。それをたった、"息子の笑顔が見たいから"だけの理由で生きる人だった。家族だから凄いわけではない、わたしの父が、凄かった。涙なんか、止まるわけがない。


わたしが大学卒業後、就職して、初任給で父と母のために財布を買って、渡した日。あの時の父は、「ありがとう」と一緒に涙を流していた。大人になってから、親の涙を見ることになるなんて、思っていなかった。

そんなに喜んでくれると思わなかったのだ。あの涙だけでどれほどわたしは言葉が書けるだろう。人の感情を、あそこまで熱を帯びて感じたのは、恥ずかしい話、それが初めてだったかもしれない。

以来、わたしは両親に目立ったプレゼントは渡せていない。もっと早く、わたしも結婚をして、家を建てたり、車を買って父を旅行に連れて行ったりするべきだったのだろう。けれどそれを言ったとしても父はまた、「しをりの顔が見られれば、十分なんだよ」と、苦しそうに言うのだろう。


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父の働いていた会社は、わたしが高校生の頃、倒産した。これは後になってから知った話だけれど、父は職位が高く、それもあって他の社員よりも早く、会社が潰れることを知っていたらしい。

"会社の最後"まで働くのが会社全体の、当然の雰囲気だったそう。

それを押し切って、父は倒産する"直前"で自主退職をした。理由は、退職金をもらうためだったそうだ。その額、数千万。もし最後まで働いたとしたら額は、ゼロ。全社員から大バッシングだったと、母から聞いた。母にだけは、その姿をこぼしたらしい。社長には「逃げた」と言われ、その話を父は今も、わたしに隠している。

そのお金が何に使われたか、わたしは知っている。わたしが、大学に行くためのお金になった。


「しをりが好きなことをしてほしいんだ」と何度も、何度も言う。有給を使わず退職日まで働いた後も、父は一日も休むことなく、近所のスーパーマーケットに、アルバイトとして働きに出た。


「生きるために、働くんだ。」

そう、父はアルバイトから帰り、わたしに言っていた。そして「新しいことをやるのは、楽しいな」と言い、笑うのだ。そこのスーパーで働いている人はパートの主婦さんや、若い10代から20代の学生たちしかいない。確か店長は30歳くらいの人だったと思う。そこへ60歳を越えた父が飛び込み、"笑顔"で働いていた。同じことが、同じ立場だったとしたら、わたしにできただろうか。

「大切ならできるはず」なんて、それは当事者しか言ってはいけない言葉なのだろう。


「父さんは、自分と約束をしている。」

その言葉の後、また父は、継続は力なりの話をしていた。それを思い出して、わたしは、わたしは今、"書くこと"をしている。



母がいたから、生きていられたんだと思う。

わたしがパニック障害だと診断されたあの日、多分母はわたしのことしか考えていなかった。いくらわたしがだめになってしまったとしても、母はわたしをきらいになることはないと思う。愛されていたから、わかるのだ。

全部遅いけれど、自分で自分のごはんを作るようになって、母が毎日作ってくれたごはんのありがたみがわかった。電子レンジであたためたごはんが、"つめたい"と思っていた頃は、やさしいを何も知らなかった。

自分で働いてお金を得るようになってから、大学まで通わせてくれた親の凄さがわかった。「わかっている」と言いつつ、何もわかっていない学生で、息子だった。


どれほど辛かっただろう、家族のためならなんだって頑張れるなんて、強がりだと思った。

わたしは大学を卒業して、就職をして。
母が自然と描くような"普通"になっていくのだと思った。けれど結果は、続かなかった。鬱になって、会社を辞めた。その時になったのがパニック障害だ。誰でもなる病気だと言われた。ただ母はわたしに見せないようにして泣いていた。大卒だったからこそ、就職できた会社がいくつもあって。そこで生きるために仕事を覚えて、勉強もして、国家資格を取って、それでも"生きるために"、会社を辞めた。

そこから症状を抑えるために薬を飲んでいたけれど、母には言わなかった。治っていないのに、わたしは母の前で"治っている"みたいに言葉を使った。わたしはこんなに元気だよ、母さんのことを不安にさせないよって。散々不安にもさせて、心配もかけたのに。涙を言い訳にして、わたしは目一杯明るく母の前で振る舞い続けた。


そんな姿を見て

「普通にならなくていいのよ」と、母は言わなかった。
「普通なんて言葉は、人生にないのよ」と言う、母だった。

だって、しをりの人生なんだから、と。


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そこからもだいぶ、月日が経った。
今でも母に会いに行って、ごはんを食べる。その時必ずといっていいほど言うのだ。


「しをりが、生きているだけでいいのよ。」


そんなことないのに。そんなこと、ないのに言ってくれる。

わたしは、会社を続けることができなかった。
新卒で入った会社を辞め、転職した会社でも上手くいかずに辞めた。吐瀉物と涙を着たまま、頭の中でずっと、障害という言葉が転がっていた。

それでも、生きるために働かなければいけなかった。わたしはフリーターとして飲食店で働くことを決め、今もそこで生きている。

ただ本当にちょうど、わたしは昨日、仕事にいけなかった。


自分にとって、やっと働ける場所だと思っていた。もう、一年半以上そこで続けている。立場もわたしは、副店長になった。皆に頼られる存在だ。

わたしが、わたしがしっかりしないといけないと思っていた。だって、わたしはアルバイトでも、副店長だったから。けれど最近、店長が変わって、環境もがらりと変わった。そこでわたしは沢山、新しい店長にお店のできていないところの指摘を受けた。


自分のことなのに、わたしは"多分"という言葉をこれから使う。

わたしは今まで"多分"、かなり無理をしていた。わたしがなんとかしないと、わたしがやらないと、わたしが、わたしがって。誰のことも頼ろうとしなかった、誰にも迷惑をかけたくなかった。でもわたしひとりでは、できなかった。そもそもひとりで頑張る必要はなかったのに。

ただわたし自身、働いている年下の、それこそ初めてアルバイトをしている学生の子たちに、働くことが怖いことだと思ってほしくなかった。

いくら周りに「いちとせさんは、やさしすぎますよ」と言われても、笑って誤魔化していた。涙なんて流したら、痛いだけだと思っていたから。わたしは今まで散々涙を流してきたから。そして人前で泣いてしまうことが、どれほど周りと自分を不安にさせるかも、知っていたから。

最近、そんなことが重なって、積み上がって。色んなことが"多分"、限界だった。どれがきっかけとかではない。たったそれだけで?と人は言うだろう。でも、違うのだ。

前日の夜、そして朝起きた時から、「ああ、これはだめになるなあ」と思った。


職場までは行けたけれど、心が苦しさでいっぱいになって、店長に「明確な理由は言えないですけど、帰ってもいいですか。」と伝えた。わたしは、仕事を休んでしまった、涙を使って。


苦しくて、またわたしは家に帰って泣いた。
泣きながらわたしは、自分と約束をしているエッセイを書いていた。毎日、ここで18時半にエッセイを投稿すると決めている。誰かに言われて始めたわけではない。わたしがやりたくて、やっていた。意味があると思ってやっていた。続けることが、生きているようだったから。

ただわたしは、人を不安にさせて、迷惑をかけたのに、"生きるため"に家でエッセイを書いていた。


そんな時、母の言葉を思い出した。

「生きているだけでいいのよ。」

全然、そんなことはなかったのに。

遠くから、でも、近くに座っていた気がする。
わたしは生き続けている自分の頬をそっと撫でた。撫でて、苦しくて、また書き続けた。


次の日、つまり、今日。
わたしはまた、泣きながら職場に向かった。

夜中、お店のこと、そこで働く従業員のみんなのことを考えていたら、一睡もできなかった。起き上がっても体はやっぱり痙攣したままで。洗面台の鏡に映る自分の顔はひどいものだった。向かう途中、何度も何度も帰ってしまおうと思った。生きているだけでいいなら、このまま仕事もやめてしまおうと思った。

一歩、また一歩と。
時間がいつも以上にかかった。

職場の本当に目の前までわたしは泣いていた。ただそこでわたしは立ち止まり、言葉を思い出していた。


「しをりの顔が見られれば、十分なんだよ。」


わたしは、皆に自分の顔を見せるために職場に、入った。

わたしの顔を見て、皆わたしのことを心配してくれた。不安そうだった。わたしは「すみませんでした」と「ごめんなさい」を言って、従業員みんなに自分の顔を見せにまわった。


そんな中駆け寄ってくる、従業員のひとりの女の子がいた。

「いちとせさん昨日いないから、突然辞めちゃうのかと思いましたよ〜びっくりした〜」と。ああ、わたしは、こんなに、と。


ぐっと、涙を仕舞って。
そして最後、わたしはいつもより前髪を不必要に垂らしながら、言った。


「辞めないから、大丈夫だよ。」


苦しかった。
声は、震えていたと思う。

その女の子は、いつも明るくて。でも少し今日のわたしの表情を見て、不安そうな顔をしていた。こんな顔をするんだと、思った。もしかすると、彼女も同じことをわたしを見て思っていたかもしれない。大丈夫だよ、大丈夫だよ、と。何度もわたしは心の中で言いながらも、自分を保つので精一杯だった。


腕は一日中震えていて、お客さんに会計でお釣りを渡すとき、何度も小銭をこぼした。けれどお客さんは、やさしかった。

ここで長く働き続けてきたからこそ、常連さんは、わたしのことを"人"として見てくれていた。


「いちとせさん、疲れてるんか?少しは休めよ〜。一日や二日休んだって、誰も怒りゃしねえだろうよ。」


わたしのことをいつも気にかけてくれる、トラックの運転手さんだった。「ありがとうございます」と、わたしは派手に笑った。また流れてしまいそうだったから"わざと"大きな声を出した。するとすぐに、返ってくる。


「そんだけ声が出れば大丈夫だ!俺もなんだか、元気出てきた!」


そんなことはないのに、そんなことを言ってくれるのだ。わたしがいて、お客さんがいて。わたしが生きているだけで、こんなにも笑ってくれる人がいる。わたしは幸せで、視界をずっとぼんやりとさせながら、一日きっちりと働いた。休まずに今日は、働いたのだ。


でもやっぱり帰り道も、泣いた。

そんな涙の匂いをたどったのだろうか。作り話のようなタイミングで、母から電話がかかってきた。あまりに出来すぎた瞬間に、夢を見ているのかと思った。空を一瞬見上げ、すーっと息を吸い込んでから、わたしは出た。


「なんか声が聴きたくなって電話かけちゃったわ。」


少し強引に大きくしているような声だった。今日のわたしみたいだった。先週も母に会いに行ったけれど、今週末も母に会いに行くことにした。人間、弱くて結構だ。

わたしは母の顔が見られれば、それで十分だったから。そして、明日も働くための勇気を言葉からたしかに受け取っていた。わたしの人生が、生活が続いていた。



姉が笑ってくれる気がしたから、好きでいられたんだと思う。

わたしには姉がひとりいる。
仲は良い、良すぎるくらいだ。
一度も喧嘩をしたことがない。それがつまり仲が良いになるわけではないけれど、挙げればきりがない。とにかくわたしは姉が大好きで、姉はわたしのことが、大好きだった。

お互い親元を離れてそれぞれで暮らしているけれど、いまもよくふたりで会う。集まる場所は行きつけの喫茶店が多く、そこでたらふくごはんを食べるのが最高だった。

そんな姉だったから、わたしは言えたことがある。


わたしは、同性愛者だった。
家族には誰にも伝えていなかった。
27歳、大人になってからわたしは、同性の人とお付き合いを始めていた。


同性の、"彼"のことを本当に愛していた。


わたしはここ以外では誰にも言わなかったけれど、昔から女の子になりたかった。けれどわたしは、男として生を受けていた。

365日で、わたしは元々あった色をいくつも出して、生きた。本当は女の子の洋服が着たくて、女の子の爪になりたくて、口紅を塗りたくて、睫毛を上向きにしたかった。女の子の心が欲しくて、ピアスも大ぶりなものを今はつけている。笑われてしまうような理由かもしれない、わたしはピアスをつけていると、自分のことを女の子だと、"勘違い"できる。

けれど社会に出る時、わたしはピアスを外した。どうしてかって、わたしのその姿を見て周りが不思議そうな顔をするからだ。「どうして男なのに、そんなピアスをつけているの?」と言葉が飛んでくるから。怖くて、心を機械みたいにして立っていた。


そんな時、彼がわたしの前に現れたのだ。
出会いはSNSであり、わたしがここで書いて、彼が読んでくれたのがきっかけだった。

彼がわたしのことを「女の子」に、特別にしてくれた。
わたしは今、彼とお付き合いをしている。彼のことが大好きで、結婚をしたいと思っている。何度も、何度も彼に愛を伝え続けた。叫んで、それでも枯れなくて。そしてやっと、同性愛者ではない彼の恋人になった。わたしという、"人"を愛してくれた。わざわざ「涙が出るほど嬉しい」と書かなくても、最初から涙がこぼれていた。


「好きな人が、恋人になった。」


たったそれだけのことが、わたしと彼にだけ見える花束だった。

彼と同棲も始めて、もう誰がどう見てもわたしたちは恋人同士だった。街で手を繋いで歩いた。目を瞑っていても、横に彼が来ただけでわかる。

どうしても着たかったから、彼とワンピースを買いに行った。スカートも買った。それを家で着て、彼の前でファッションショーをした。「可愛い」「綺麗だよ」と、彼が本気の目で言うのだ。

幸せな勘違いだと思った。ただ彼と同じ空間にいる時、"それが"勘違いになった。真夜中だったけれど、わたしは真っ白いワンピースを着て、彼と街を歩いた日がある。彼に愛を伝え続けて、彼と一緒に歩いて、生きて。限りない喜びに満ちる。そんな想いが積み重なり、わたしに言える日が来た。



いつものようにわたしは姉と喫茶店に行った。


何も変わりはしない。
店員さんを呼び、お互いの好物を注文した。わざわざ話すようなことではないことを、夢中で話した。目の前に姉がいて、笑ってくれて、十分だった。


「言える、」


そう、心が思った頃にはもう、言っていた。


「今ね、男の人と暮らしてるんだ。」


姉は「わかっていたよ」とでも言わんばかりの表情をしていた。同時に「どんなことがあってもいいよ」と眉毛の形から聴こえてきた。わたしは姉があまり理解していないかと思って、少し早口で続けた。ただそれに、すぐ、返ってくる。


「男の人っていってもあれだよ、友達じゃなくて…」

「ああ、"恋人"ってこと?」


大好物のナポリタンを口に入れたまま、行儀わるく姉は笑っていた。「いいじゃん!」と、肯定してくれた。たったそれだけの会話で、よかった。でも今までが積み重なって、やっと踏み出せた。わたしがわたしらしく生きる、一歩が続いていた。



人は、人と共に生きている。

家族、友達、恋人、仲間がいて。
それらすべての人に支えられて、わたしは365日書き続けて、生きた。強いところなんて、ほとんど書けなかった。

人は、ひとりでは生きていけない。その言葉と並行して、人はひとりで生きなければいけない時間があるのだと思う。頑張るのも、わたしだ、あなただ。けれどその瞬間に、人がいたはずだ。言葉を、想像していたはずだ。


わたしの人生を読んで、わたしになりたいと思う人はほとんどいないだろう。けれど、だからこそわたしは自分がエッセイを書いているのだと思う。あなたはわたしとは違うけれど、同じ世界で生きているひとりだと、それが少しでも届けば十分だったから。それが本当に大変で、幸福だった。

知識も知恵も乏しくて。覚えたことは、新しく覚えたもので押し出されて、消えて。


けれど、どうか。

エッセイを読む楽しさを、知ってほしい。
エッセイを書く楽しさを、知ってほしい。

あなたは、どんなことをして生きているだろう。
「あなたは、誰と生きているだろう。」
喜怒哀楽をあなたは、持っているはずだ。

続ける約束を、したいものだけ。
続ける約束を、生きるために、少しだけ。

今のあなたは、好きな仕事をしているだろうか。やりたくないと思いながら、仕事をしているだろうか。趣味を持ちながら生きているだろうか。友達がたくさんいるだろうか、誰も周りには人がいないだろうか。コンプレックスは、いくつあるだろうか。辛いか、悲しいか、暗い部屋で過ごしているか。「ああ、だめになるなあ」と思う夜は、朝は、何度あったか。


わたしは、エッセイが好きだ。
わたしは、言葉を書くのが好きだ。
そしてあなたの、なんてことない日常を、読ませてほしい。


大人になっても、人は取るに足らないもので生き続けることができる。

なんてことない日常は、どうしても残らない。覚えていようと思っても、忘れてしまう。だから、書いている。「人生」と「生活」をしよう。大切にするために、あなたにとっての「栞」を挟んで。

366日目に向かって、もしくはそれももっと越えて、わたしは今も書いていることだろう。


あなたの、あなたなりのペースでいい。

自分と約束をしたことを続けるのって、こんなに楽しいよって。苦しいことがあるのは大前提で、わたしはそう、伝えたい。


書き続ける勇気になっています。