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マルクスはクズニートか?

マルクスというと、エンゲルスのスネかじりとか、家政婦と不倫して孕ませたとか、人格破綻者を思わせる数々のエピソードを連想するかもしれない。

そのようなエプソードからか、マルクスは、働かなくていい口実を必死になって考えていた卑屈なクズニートという冷笑的な印象が巷で流通しているようだ。

しかし、マルクスは働かなくていい口実を考えていたわけではない。

何より、彼は「労働」を否定していない。
マルクスは、労働を「人間と自然との意識的な物質代謝」と極めて無機的に捉えている。理由はシンプルだ。どんな社会の人間も、生活していくためには、自然を対象化して、人間の需要を満たすのに適した物質的条件へと意識的に加工する必要があるからだ。してみると、マルクスは、ごくごく当たり前の話をしている。

彼は、生活のために行われる人間の自然に対する意識的な媒介過程を「労働」と呼んだ。
この理屈からすると、労働なくして社会の存立はありえない。そう、マルクスは労働を否定していないのである。むしろ、労働というものがあって、はじめて社会が成立することを彼は公然と認めている。
裏を返せば、社会の再生産のためにも働くことの必要性を述べているのである。

では、マルクスが執念深く否定したものとは、いったい何なのか?
マルクスが否定したのは、資本主義が、資本主義である所以の「私的労働」である。さらに、マルクスは私的労働から論理的に帰結される「賃労働」という疎外労働の一形態を廃絶の対象とした。

つまり、彼は、私たちがまさによく知る今日の労働形態を否定したのである。というのも、賃労働とは、資本主義の中でも最も重要な問題系の一つだからである。(賃労働の問題について、いずれまとめたい)

そういう意味では、マルクスの理論が古く使い物にならない議論であるというのも印象の域を出ない。彼の議論の射程は賃労働が支配的である今日にも十分に届いている。賃労働の成り立ちを問うことは、社会の中で生きる私たちを問うことでもあるのだ。

ところで、マルクスはロンドンに移ってからは、平均的労働者と同じ水準である劣悪な環境で生活していた。エンゲルスから仕送りを貰っていたとはいえ、彼の生活は貧困を極めた。当時のイギリスの平均的労働者階級の生活と言えば食事、下水道、寝床、あまりに不十分で凄まじいものであった。さらに、マルクスは悪質な衛生環境が原因で自身の子ども も亡くしている。
しばしばマルクスは、ニートだとか、スネ齧りだとか、冷笑的に「ネタ扱い」されるけれど、エンゲルスと共に労働者の生活に問題意識を強く感じていたのは間違いない。それも、身をもって。だからこそ、実際に彼は、労働の存在様式を規定する「資本主義」の研究に人生の大部分を費やしたのだろう。

たしかに、マルクスは、家政婦と不倫した。無責任にも孕ませた。エンゲルスに泣きついて金をせびった。騙したこともある。クズなのかもしれない。ニートなのかもしれない。

加えて、マルクスが分析した初期資本主義と比較して、今日の資本主義の姿形は大きく異なるのかもしれない。
すると、もはや、マルクスは不要か?

そうではないだろう。
第一に、商品や貨幣は姿を消したたのだろうか。賃労働は消滅したのだろうか。人間は未だ資本主義によって疎外された個人ではないか。
それどころか、いまや市場は世界を覆い尽くして、ありとあらゆるものが商品化してはいないだろうか。
私たちは相も変わらず景気に振り回されてはいないだろうか。人々の間では貨幣崇拝が強まり、むしろ資本は世界市場の中で独占を強めてはいないだろうか。
人間が、部品のように扱われる社会は、未だ終わってはいないのではないか?

今日の社会でも資本主義というシステム事態は変わっていない。そうである以上、マルクスの理論は使い物にならないクズでは決してないし、むしろ、資本主義社会を分析するにあたっては有効に働く理論だと言えるだろう。

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