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なぜミステリと言えないのか?


月9のもじゃもじゃ青年が主演の某ドラマを見ている。
原作は未だ読めていないが、毎週楽しみに見させてもらっていた。来週で最終回ということは、そろそろ桜が満開になる時期か。

さて。あのドラマを見ていて、なぜタイトルが "ミステリと言う勿れ" なのか思ったところがある。

それは、あの作品は "ミステリ" という "非現実" 的なストーリーではなく、ある意味ノンフィクションな、現実的なありのままの人間を描いている ということだ。

まず、あのドラマに登場するストーリー上の加害者たちは(一概には言えないが)被虐待児であったり、誰にも頼れず、誰にも助けてもらえず独り傷付いてきた人々だったり、自分の失敗をどうしても許せない人や、仇をとることに人生をも捧げられた人、自分の社会的立場を利用することを厭わない人々だった。
どこか "普通"の人と感覚が異なっているようで、でもそれを隠して"普通"の人間の殻を被っていた人間であるように思えた。

もちろん、加害者だけではない。
自分の傷や他人と向き合い続けてきた主人公(言葉足らずで申し訳ない)、自分に自信もなければ誰にも頼れないあの女の刑事や解離性同一性障害の少女らもまた、誰かに出会うまでは彼らと同じように弱さや痛みを抱えていた。小説や漫画に登場するような人間よりも実に(リアルに)人間らしくて、震えがした。

(釘を刺すようだが、私は原作は未読である。あくまでもドラマのみの知識で語っていく。)


作中では

"本来ならケアされるべき人間"

とも言われていた彼らだが、実にこの言葉は現実じみていて本当のことであると私は考える。


実は、私は大学で教育学を学んでいた。僭越ながら、教員を志すあのもじゃもじゃあたまの主人公と同じだ。

だから彼は知っていたのだろう。


加害者であった被虐待児が、或いは助けてもらえず、独りで疲れ果てていた彼らがもっと早く、主人公のように手を差し伸べてくれる誰かに出会っていたら。

あるいは主人公のような心を軽くしてくれる人、今までの自分を救ってくれる人に出会っていたら。


彼らは罪を犯したのだろうか、ということを。



教育学を学んでいて、とてもしんどかったことがある。

それは、学校に通えない子どもの抱える現実や深い心の傷、親と子の脆くて儚くて強い絆の大きさと、それに立ち入ることも気が付いてあげることすらもできない大人や他人の無力感だ。


そうだ。だからあれは "ミステリ" なんかではないのだ。

  



先日、学校で教員をしている父親が原作の漫画を買ってきた。

父親とは語りはしないものの、本棚や録画リストを眺めていて好きな作家やドラマの系統が非常に似ているように感じていたが、やはり間違っていなかったようだ。




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