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別に普通になりたいわけじゃないのに「普通」を装ってしまう。

先日の話。

映画を観た帰りに治安悪そうな商店街を通って帰ったのだが、うろうろしてるホストみたいな兄さんたちに絡まれないようにイヤホンをつけようとしたらイヤホンケースを落として側溝にホールインワンして詰みました。

イヤホンケースのケースじゃなくて、充電するほうの、本体のケースです。
安物だけど数年愛用してるやつだったのに…

(今思ったどうでもいい気づきだけど、「詰み」はやられる側の視点なのに「チェックメイト」はやる側の視点だなあ)
↑めちゃくちゃどうでもいいけど気になってちょっと調べたら「チェックメイト(詰み)」ってなってる。でも「チェックメイト」って言ったら(詰み)って言うより(詰ませ)だよな)

いや〜やばい。
イヤホンなくて生きていけるかな。

でもここ最近家帰ってまずイヤホンつけて音楽聴きながらウダウダワチャワチャして夜が終わってたから、節制しなさいという神のご啓示だと思います。めちゃめちゃストレートホールインワンすぎてまだなんかショックすらも受けれてない。

いや〜やばい。
ここ最近のメンタル。

というかなんだろう。
生きる気力。

体に力が入らないびしょ濡れアンパンマンになっとる。
別に楽しいことしてるし休みもちゃんと取ってるのになんでしょう。

あれか。
冬が来てるのか。

(自分のnote読み返してたら去年のこの時期もちゃんと沈んでました)

あかんなあ。
やらなきゃと思うほどやる気が失せていく。

日記の効用。

けっこう子どもの頃から気まぐれに長文日記を書く癖があって、紙に書いたりジャーナルアプリに書いたりiPadのノートアプリに書いたりしてるのだが、ここ1ヶ月ほどまた紙日記を書くようになって、それがけっこう自分を良い方向に導いてる気がするので最近は日記信者になっている。お布団に入って睡魔に襲われながら脅迫的に書いてる日もある。(やばい)

私はスピリチュアルは信用してないけど、科学もそこまで信用してないわけで、科学は信用してないというよりは科学的に証明できないものを排除してしまってるので科学で考えない部分があまりに多すぎる気がして、だから「科学的に証明されていない」物事をイコール嘘みたいに扱う人間をそれはそれで信用していない。

科学が扱えない物事をどう信じていくかは難しい部分ではありますが、もう自分の感覚に付き従うしかない。だって何も信用できないんだから。

そういえば「論理」も信用できない。
論理が信用できないというよりは「人間が理解できるレベルの論理」を信用していないし「人間が人間に説明できるレベルの論理」はもっと信用していない。
因があって果があるわけだが、その因もまた何がしかの因の果なわけであって、しかも一つの因に一つの果なわけじゃなくて、無数の因から無数の果が生まれて、またその無数の果が因となって新しい果を生み出していく。

だから「結局誰(何)が悪い」みたいな話に持っていかれると、ちょっとむかつく。
こういう、ちっちゃい「考えないことによる優しくなさ」みたいなのを自分の中で上手く消化しきれずに、ちょっとずつ社会を嫌いになってしまっているのが、自分を社不たらしめてる理由のひとつだと思っている。他にもいっぱいあるけど。

優しさって考えることだと思うし、考えることは優しさだと思っている。

一人一人の「人間」は好きだし、それぞれにそれぞれの優しさがあるのだろうに、「社会」になると優しくなさを感じて毛嫌いしちゃうのはなんなんでしょうな。

不思議。

一切の努力は自傷行為だと思ってる派。

自分は虚無主義なのに、一体何をがんばっていて、がんばっている人たちを見てなぜ劣等感を抱くのかをよく考えてしまう。
何が自分にとって成功か、どう生きたいのかも分からないくせに何かもがいてないと不安になっちゃう。

まあ生きていけるだけの最低限の努力は必要だから(まだ生きていたいと思ってるからね。でもなんでまだ生きたいのか、頑張って生きている年数を増やそうとしてるのかも自分でまだ分かってないけど)、その努力さえしてあとはひたすら楽に流されて生きていけばいいわけなのだが、そもそも努力とは何で楽とはなんでしょう。

あくまで一意見として聞いてください。
努力は自傷行為の一つだと思ってます。

努力とは、「何かになりたい」とか「できるようになりたい」とか、自分の価値観に合った目的があって、その目的に向かって行う手段だと思っているが、価値観を見失ってしまった虚無主義者は、どこに向かうべきか分からない。どこに向かうべきか分からないのだが、とりあえず今の自分を受け入れがたくてもがいてしまうが、どこにいけばいいか分からないのでとりあえず人生をバタバタとして疲れてるだけ。

そもそもなぜ「何かになりたい」とか「できるようになりたい」と思うんだろう。別に今の自分を受け入れればいいじゃないか。生きている者の存在は素晴らしいのだから。苦しさや葛藤に悩まされなくたって、生きていければそれでいいじゃないか。

なぜ人が努力をするのか。
自分に負荷を与えてまで何かを目指すのは、今の自分を受け入れられていないから?現在に満足していれば別に努力することに時間を割かなくても良いわけで、努力する人たちはどういう価値観を持っていて、何の為にしているのだろう。そもそも努力って何?

私は現実逃避です。

常に今の自分を受け入れ難いです。
そもそも自分が何かの為に何かをしていることを「努力」と呼んでいいのか分からない。なぜなら目標を見失っているわけで、目標を見失ってしまった以上、何かをすることは「無駄な労力」になってしまうし、何かができるようになったことは「無駄な能力」になってしまっている。

現に今まで「何か」を色々と身につけてきたりしたわけだけど、それが何の意味を持つのか分からないままできなくなったり忘れたりしている。それでもまだ意味の分からない何かを、今の自分を受け入れ難い為に色々と身につけようとしている。

なんなんでしょうね。

じゃあ何ができるようになれば現実の自分を受け入れられるようになるのか。自分ができないことのひとつひとつに目を向けていって、それが終わらないまま自分ができることができなくなっていって、人生終わっていく。

できないことに目を向けるのではなく、今自分ができることや持っているものに目を向けてみましょう。

それで満足できるのだったら、もう努力なんて概念必要ないじゃろね。

誰も私に期待するなと思っておきながら、いちばん自分に期待してるのは自分だったね。

期待されるのがめちゃくちゃ苦手です。
「期待してるよ」と言われると、「すんなや」と思う。

何かをするときに「他人からの期待」というプレッシャーが一番の枷になってしまう。

評価をされるのも苦手です。良い評価であっても。

そもそも私が好きでやってることとかに「他人からの期待」とか「他人からの評価」が乗っかってくると、「ああもう、これは好きでやってることじゃないですね。これはもう、不自由」と思ってしまう。

もし私が大谷翔平の実力を持っていても「僕が明日の試合でホームランを打ったら手術を受けてくれるね?」とは言えない。なんだそのいらんプレッシャーは。

「やりたいからやっている」ことが「他人からの期待に応えるための義務」に変わってしまった気がして、義務を感じた瞬間にそれをすることが苦しくなる。

結構最近までそれを感じてたけど、たぶんあれだ。
他人はそこまで私のことを見ていなくて、プレッシャーを感じてたのは自分の自分に対する期待値の高さのせいだ。

私は一人でいるときは極めて自堕落な生活を送っているが、人といるときはなるべく完璧な自分を自分に求めてしまう。

完璧で天才で、思慮分別があって、知的で愛情深くて、ストイックで、シゴデキでスパダリで、孤高だけど親しみやすくて、勉強も部活も恋愛もうまくいってる進研ゼミでありたいと思っている。

なんて欲深いんだ。

苦しい。
なんでも知っていないといけないような気がするし、なんでもできないといけないような気がしてしまう。

同時に謙虚でなければいけないとも思っている。

これ以上、もうできないものはできないのだから、受け入れたら良いのに、そこまでの弱さを出せるほどまだ自分の器は育ってないんだなあ。

「普通の人」になりたいわけじゃないこと。

なんでなんだろうね。「普通」になりたいとか思ったことないし。というか「普通の人」ってなんなんでしょうね。

「普通の人」が存在しないことくらいは、分かってますよ。私も大人なので。

それでも、生活してる中でなんかちょっと「あれ、私はなんかちょっともしかしてこれは、変?」と感じる部分があります。

別にそれで今まで不自由とかはしたことないし、特にいやな思いとかもしたことないけど、なんか、地元から出た時に気づく自分の方言みたいな感じで「あれ、これはもしかして、初めましての人に違和感を与えてしまうのか?」って思ってしまってうまく自分を出せなくなる時があるよね。

なんかでも「普通はこう」みたいな社会通念があったりすると「普通はそうなのか。じゃあそうしなきゃいけないのかなあ」という気分になってしまったりする。

別に不自由してないのに。

不自由してないし、別にその「普通」に憧れてるわけでもないのに「そうしなきゃなのかなあ」と思ったりして、そうじゃない自分の部分を「直さなきゃいけないのかなあ」と考えたりしてしまう。

「普通」ってなんでしょうね。

ないんだよ。普通なんて。
分かってるんだよ、そんなことは。

自分は自分としてしか自分を見たことがないから、自分が他人からどのくらい「普通」と思われてるのか分からない。

別に「普通」と思われてるのならそれでいいし、「普通じゃない」と思われててもそれはそれでいいんじゃないかと思う。

それでも「普通はこっちですよー」みたいな無意識な世間の案内があったりすると「あれ?自分は本来どっちに行こうとしてたんだっけ?普通はあっちだからあっちかね?」と思ったりして、でも歩きながら「これは今、すごい遠回りしてる気がするな」とか「これはなんか、私ではなく俗世の意見ですね」と思ったりしてしまう。

難しい。

「普通」なんて分からないし、そんなものはないのに、どうしても「普通」の呪縛から解き放たれることができないとは。

何かしようとした時に「普通はどうやるんだろう」なんて考えたりしてしまうとは。

世知辛い。
「普通」の呪縛。


(余談)

夜に自分の本棚を見上げたら太宰治の『晩年』が目について、お風呂に浸かりながら数ページだけ読んだ。数年ぶりに太宰を読みました。
本当に数ページしか読まなかったので『晩年』の最初の「葉」の冒頭しか読んでません。
でもなんか、太宰っていつ読んでも太宰で安心する。
私が初めて太宰を読んではまってしまったのは、高校入学時の感想文の課題で仕方なく図書館で読んだ時なのだが、その時とこの歳になって読むときの太宰作品に対する感情が変わらなくて安心しました。

「葉」を読んで、好きだなあと思ったこの2文。

何をするにも物憂かった。「汲み取り便所はいかに改善すべきか?」という書物を買って来て本気に研究したこともあった。

「晩年」太宰治

いや〜もう。流石だなと思いました。
物憂さ文の次にトイレを持って来ちゃうあたり、好きだなあと感じる。

数年ぶりに数ページ読んだだけのくせににわかヲタクみたいになっちゃってすみません。

私は他の誰かになりたいと思ったことはないが、もし他の誰かにならなきゃいけないとしたら、太宰を選ぶかも。いやだけど。薬中になりたくないし借金に追い回されたくないし入水もしたくないけど。
でも、小説を書くとしたら、こういう文章を書きたいなと思う。

肝心の『人間失格』は無くしちゃってかなしい。


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