自己肯定感はなくならない。(原題:先日の昼下がり、夜上がり。)
にょいにょい。
ファミレスでカリカリポテトを食べているよ。
穏やかな日々を過ごしています。
今月は、毎日毎日何がしかの進捗を生まなきゃという強迫観念に囚われることなく、平和な心持ちです。
いつもの如くモヤモヤとしたものが溜まってきて、よし書くぞと思って寝落ちたのが先週の水曜日。ということは10日間くらい寝落ち続けたということです。
寝落ちに関しては三日坊主を感じることもなく継続できます。
継続は力なりと言いますが、私の寝落ちも上手くなってきたものですね。
今日は仕事終わりに映画でも観に行こうかなと思ってショッピングモールにきたけど、映画って地味に2時間とかふつうに取ってくるんよな。
カラオケ行く時も思う。入って出たら2時間経ってるんだよなって。
おかしいよね。
映画の中とかカラオケの中で経つ時間はシュッて感じなのによ。シュッだぜ。人生は短い。
そんなわけで今日は映画を諦めて読みかけの本を読むのとこれ書くのに時間をあげることにしたわけです。
一定時間経過すると私の記憶力が限界を迎えて忘れちゃうからです。
閑話休題ですよ。
書きたいことはいっぱいあったけど、いろいろ忘れた。
なんか先週は心の神経が過敏になっていてウッてしてたねん。
というか、私のもうなくなってしまっていたと思っていた自己肯定感がまだ下がって「あれ、私まだ自己肯定感あるやんけ」と気づいた次第です。(なくならないものです本来は)
なんか「自分て他の誰よりもなんもできんなあ」という感覚が定期的に、リマインダー通知のように自分の心に届くわけですが、
最近はもうリマインドされすぎて、来る通知を意識する間もなく消去してるレベルに突入していたと思ったのだが、
なんか先週のそれは割とちゃんと悲しくなることができた。
「自分て他の誰よりもなんもできんなあ」と思って悲しくなったということは、悲しくなる前は「自分て他の誰よりもなんもできんなあ」と思ってなかったということで、「自分て他の誰よりもなんもできんなあ」と思って悲しくなったことによって「自分て他の誰よりもなんもできんわけじゃないかもなあ」というアンビバレントな気づきを得たということです。
その日Twitterで特に見る意味のない、内容は全然忘れたけど、リプ欄で不毛な争いをしてるのをいつもの如く閲覧してしまって、ある二人が終わらないやり取りを続けてたんだけど、時々出没してくる第三者たちのリプの中に「いいねの数が民意」というのがあった。
いいねの数が民意。
こわいなあと思った。
数の暴力。
民主主義だもんね。多数決の原理。
お互い別にどちらかが罵倒していたわけでもなく、議論していたわけだが、そこに傍観者たちが現れて、無責任に勝敗を決めて無傷で帰っていく。
議論をすることは大事だと思う。
でもそれは、「どちらが正しい」のかを結論づけることじゃなくて、「お互いに理解して納得し合う」というゴールを目指すという目的の中で。日常生活で裁判員をやる必要はないんだからよ。
真面目な話をしてしまった。
なんか先週はそういう見なくてもいい小競り合いで傷ついてしまうセンチメンタリアンだったという話です。
センチメンタリアンだった先週の水曜は午前の仕事が死ぬほど長引いたのだが、午後のバイトがたまたまお休みだったので映画を観に行ってきたんですよ。
「窓辺にて」。
センチメンタリアンに響く今泉作品。
ちっちゃいいろいろに傷ついたのも仕事が鬼伸びたのも、この1本でその日一日を巻き返すことができた。
感想を書きたいところだったがもう忘れちゃったよ。
もう一回観に行こ。パフェ食べてこ✊
ここから本題に入る予定だったのだが、眠くて文章と定義される文章を書ける気がしない。ファミレスで寝落ちそう。
思うところがあります。いろいろと。
理想論を語っててもしょうがないのだが、受け入れられない現実も多々あるわけです。生きてれば。
そんな重たいわけでも小難しいわけでもないのだが。
noteを始めてからもう4年くらい経ったんかなあ。
思ったことを書くのが前ほど難しくなくなってきたと思うけど、でもやっぱりまだ本当に自分がそう感じてるのか、そう思ってるのか、言葉が先行してるんじゃないかとか、中身を外に出すのは難しいもんですな。
正直にいきたいね。自分に。
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