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映画『ドライブ・マイ・カー』雑感


ほんとうに良く出来た脚本…。ためいきがでるほど。
と思いながら、同じようにピタリとパズルのピースが嵌まる・伏線回収っていうのでしょうか、それがとくいな作家はゴマンといるのもわかっている。
ただ、それだけでも十分なのにおそらく目的ではない。或いは何故回収しなくてはならないか?と探求するのが目的のような、凄く不思議で剥き出しな脚本だ。
単なる面白かったでは終わらない。

でもどう違うんだろう?
それが全然わからない。
或る人にとっては、良く出来たお話以上のものではないかもしれないし、或る人には人生を変える映画にもなる。
映画ってぜんぶそういうものだといえばそうですが。
でも何故映画がそんなことを起こしうるのか?
少なくとも観る前と後では違う。
年齢もあるかもしれないけど、確実に何か、次元をスライドした気がしました。それがどうしてか、全然わからない。
村上春樹の小説は案外読んできたつもりですが(世代的に)、小説ではボヤ~っと数日浸っただけだった気がしてくる。
濱口監督の優れた読解で、私はなかなか言語化できないけど、やっと村上文学を理解できたところがポツポツでもあったんじゃないか。
でもどんな人に対しても、意外と間口が広いのがこの映画の良さだと思います。

見どころは沢山あるけど、いまの私はこの映画全体がビルドゥングス・ロマンにも受け取れるところに思えます。
主人公・家福が自分の仕事=演劇を通じて、何か大きな、自分一人では到底背負いきれない悲しみというか、また自分にとって罪のようなものをみごとに昇華させる。
長尺なので思った以上に他の役者も多く登場し、とくに美しいふたりの女優が、昼下がりの公園らしきところで唐突に何かを発見する場面はしびれました。彼女たちが見えない次元でふっと上昇する瞬間でもあったのだろうけど、人生のなかでほんの一瞬しか訪れない奇跡のようにとらえられました。

もちろん、エ!っと驚くどんでん返しもありました。高槻くんのこと。そこはなんかみょ~に映画的。彼だけこの映画のストーリーを加速させるために仕込まれた虚構の存在っぽいのです。物凄く目立つし、いつだって思わせぶりで、台詞もスリリングで…。そう、浮いてるんですけど。少し前の映画『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』で、実在の人物に絡んだディカプリオとブラッド・ピッド演じた虚構の二人組みたいな存在かもしれず。原作ではちゃんと存在してましたし、映画でも間違いなく存在しているとは思うのですが。主人公含め他のキャスト全員ニュートラルで静謐な濱口組感を漂わせているにも関わらず、彼だけごく普通の映画やドラマでよくある話し方をし、なにかと浮いてるんです。本読みではよく注意されていた。いま思うと濱口監督流のギャグかもしれないのですが、そのあたりも虚構同士の境界がグラグラ揺さぶられている。
小説だとぜったい出来ないです。読み手は、大抵一人で読むのだから特別なことが書いて無い限りふつうに統一します。ヘタなはずはないので、敢えてそうする計算がやはり面白いです。

ほとんど退屈しません。しかしそれは第二部、主人公の家福の妻が死んで二年経ってからです。村上春樹が大キライです。という人でも、そんな面白い第二部は観たほうがいいし、そのために村上臭がプンプン放たれた第一部はやはり観ないといけない。第一部がないと、娘も妻も失った彼にならない。


第一部は妻がしょっちゅう喘いでエロいけど、家福演じる西島秀俊の表情がやはりいい。画面には喘ぐ妻のむきだしの背中が向けられており、妻の表情は見えないので、覆いかぶさられた西島氏の表情から想像するしかないですが、その表情は当惑そのもので、はっきりいって恐れている。たぶん、やりながら物語を語る妻が別世界に深く入りすぎて、茶化したり笑って済ませられるレベルをはるかに超えてしまった。たった今交っている相手が全く知らない何者かに乗っ取られている風に見えるという意味にも思えます。

身体そのものを捧げ、トランス状態と化し、遥か昔からの、前世からの因縁までも語る妻は太古の作家の技法というか秘法をなぞらえているとして、家福自身そんなことはできないが、冷静に物事を俯瞰し分析する能力に長けているキャラとして設定されていると思えます。だから、彼には内側より外界が相応しく、外界もまた彼女が沈んだ内界と呼応しているので、くり返し出会い直すことができる。とくにワーニャ叔父さんのテープを聴いている時間。もちろん、彼の現実と呼応している台詞のところしか監督は切り取ってない、ずっとかけっぱなしのはずだから。にもかかわらず、映画的ご都合主義には見えなかった。ほんとうにこちら側の現実世界に常々起こっていること、それどころか現実の本質はこうなんだよ、内界とつねに連動してるんだよと、フィクションに諭されているよう。ユーミンの『やさしさに包まれたなら』の世界です。

う~ん、また観よう。
ミサキちゃんのこと、ちっとも触れられなかった。
何でだろう。ミサキちゃんもまた、虚構色が強いんだった。家福とふたりになると、ロードムービー色というか、不幸も凡庸な添え物になってしまうように。
脚本が悪いんじゃない、止まらない車窓の景色、映像、映像、映像、…今まで観たロードムービーのせい。

しかし虚構の中で虚構であってはいけないし、ふたりは車から降り、背景が何もない、深く積もった雪と埋もれた残骸だけのうらぶれた場所で、自分たちしか立っていない存在が強調された舞台(アカペラと思ってもいい)で思いきり泣くのだ。…こう書くと監督はフィクションという在り方でしか存在することの出来ない『何者か』たちへ、幸せであってほしいと思いっきり熱い愛を放ったように思えてくる。

ラストシーン、良かったな。彼女の未来を暗示する果てまで伸びた道路だったけど、過去でもある。
いや、すぐに飛んで過去になってしまう未来がどこまでも今と地続きであること、すべての時間と。

そして私は一体この映画で誰に感情移入したかわからないまま(きっとポンポンと飛んだ)、最後まで観終えて、自分がこの映画を観る前とは違う場所、ほんの少しだけかもしれないけど、作品の何かに押されスライドしたのだと感じたのです。

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