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ご馳走はシンプル

この記事を読んで、なるほどと思った。


私が子どもの頃、レシピといえば、TVの料理番組のもの。

それも、定番のメニューのものばかりで、ウチの母さん、おばあちゃんはそのレシピ本をコレクトし、内容は見ないという何とも意味ない状態であった

…代わりに、私が日々の目の肥やしにパラパラ捲っていたのだけど。


2000年代になって、クックパッドなるもののおかげで、いろんな料理、作り方が日々更新されるようになった気がする。

私もお菓子を作る時には参考にするけど、それ以外は見ない。
だって、いっぱいあるから、そんなの作れない。


でも、世の中の家事を任されている人々は真面目なのね。

主にお母さんがその役目を背負っているのだろうけど、この早い世の中に昔のお母さん以上の料理をされてるんだとしたら、ヤバいと思う、ご自身の時間はどこに行ったのか?


でもさ、土井先生のような第一線の料理家の方が、

「おいしくなくてもいい」「ええかげんでもいい」。



私も思うんだ。

おいしかった料理の味は忘れない。
けど、それって料理の味よりも、誰と一緒にいて、何してたかの方が覚えてて、世間で言われる『おいしい』が付いたものは、そこまでおいしいと思えないこともままあって、だから、土井先生の言われることがわかる。


おいしいと思うものは、シンプルな味で覚えている。


それこそ、我が故郷は島根県松江市。
朝どれの魚がスーパーに行けば、わんさかある。

だから、毎日のように塩を振っただけの塩焼きが定番のように食卓に鎮座していた。

魚は、アジの時もあるし、サバやギンタツ(全国的な名前がわからん)、干物の時もある。

味が気に入らないと、おばあちゃんはそこに醤油をぶっかける。


後、『板わかめ』なる食べ物がある。

本当にわかめがそのまま干されている代物で、パリパリしてて塩味が強く、海の香りもして、それを白おにぎりに巻いたり、砕いて、ご飯の上にかける。

それだけでもおいしかった。


食卓の上はそんな風景だったけど、それを囲む人の様子は日々違ってて、食べ物も大事だけど、そういう空気の方が後々思い出すと、いろいろ甦る。


『食べる』ことは大切なんだけど、私にとってはやっぱり周りなんだよな。

どんなにおいしいものを食べても、それを分かち合えないのってつまんないし、おいしいもの作ったから、おいしいって言ってて言われても、困る。


土井先生の記事の趣旨とはかけ離れた着地点になってしまったけど、

人が人生で持っていけるものは、経験や思い出だと思うようになってきた分、だからこそ、手の込んだ料理よりも、きっとそこで一緒に分かち合えばいいのかもしれない。


私にとっては、自分の大切な人たちと食卓を囲めれば、それがご馳走なんじゃないかな。


他の人はどう思うのか、聞いてみたいことの一つ。





出会ってくれて、記事を読んでくれて、ありがとうございます。演劇をやっています、創るのも、立つのもです。良い作品を届けれるよう、日々やって参ります!