見出し画像

[短編小説] わたしの世界

目を覚ますたびに人は昨日と同じ世界に生きているのだろうか。何事も無く日々が過ぎていくのは奇跡のような幸運の積み重ねなのかもしれない。

じっとりとした蒸し暑い6月、午後からの講義に出るため、身支度を整える。コロナ禍ではほとんどがリモート授業で、朝からパソコンの前に座ってる日も多かった。対面の授業が再開してからは、キャンパスは改めて大学生という身分の確認をさせてくれる場になった。
その日の気分で洋服と髪型を決めるとテキストや化粧ポーチをバッグに放りこんで携帯の画面で電車の時刻表を確かめる。

「晩御飯はー?」
母が奥のキッチンから声をかける。
「えー、わかんない、LINEするー」
誰と遭遇するかでそのあとのスケジュールが変わる。
こんな曖昧さも学生の特権か。予測不能なこれからに、少々の期待を込めつつ外へ出る。それが私の住む世界だった。

2回の電車乗り換えを経て大学に1時間ほどかけて行く。最初の電車の3両目が次の乗り換えに便利だから、その日もいつものように3両目の停止位置で待つ。乗り込むと、なぜか人がまばらで、いくらでも席が空いていた。普段はそこそこ席が埋まっている時間帯なのに…
その理由はほどなくわかる。

60過ぎくらいだろうか、白髪混じりの長髪に隠れた表情は不機嫌そうに口を歪めている。ヨレた白シャツはボタンが3つほど開いていて、ペラペラの生地の灰色のスラックスは相当くたびれていて腰ポケットからは皺だらけの紙袋が飛び出していた。すえたようなアルコール臭が漂う中、その男は両腕をダラリと吊り革にかけてゴリラのように揺れていた。座ればいいし、寝てしまえばいいのに、フラフラ揺れながら何かを探しているようだった。

まずいな、本能的に危険を感じた。男の危うさと私が標的になる危うさだ。車両を変えよう。静かに目を合わせず連結部に向かう。わずかな乗客は気配を殺して硬く座っている。動いているのは揺れる男と私だけ。私に来るな、私に来るな、胸の鼓動は音を立ててドン、ドンと激しくなる。足は小走りになり、連結部のドアに手を掛けようとした瞬間、背後に異常な殺気を感じた。ドスン!背中に重い衝撃を感じ、私は意識を失った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?