『「吾輩は猫である」殺人事件』奥泉光
単行本が出たのは1996年で、出てすぐに読んだので30年近くぶりに再読。
初読時の興奮の記憶は鮮やかで、この作品にノックアウトされてその後奥泉光を熱心に追いかけてきたけれど、やはりこの作品が奥泉光の原点なのだなあ。奥泉氏自身、この作品を書くために作家になった、とまで言っているくらいだ。
読みどころの第一は、漱石の文体の見事な模倣。まぁほんとに、よくぞここまで、と讃嘆感嘆することしきり。インタビューでもそのあたりは大変苦労したようなことを語っている。
その苦労が見事に結実している。漱石ファンならずとも、その模倣ぶりにはニヤリとさせられること間違いない。
しかしこの作品の眼目はただ見事に模倣したという点だけにはあらず、猫を下敷きに壮大稀有なエンターテインメントとして、本家を換骨奪胎してみせた作家的手腕に、大いに瞠目させられる。
ホームズとワトソン(言わずもがな、どちらも猫)も登場させてスリリングな推理合戦を繰り広げたと思ったら、犯罪組織との追いつ追われつの大活劇、そして最後には時空を超えるSFになる、この破茶滅茶な展開を飽きさせず呆れさせず読ませる力量、奥泉光恐るべし、なのである。
本家「吾輩は猫である」のほんわかした世界が一点、苦沙弥先生の家に出入りするお馴染みのキャラが国際犯罪組織と関係するという、目眩くパスティーシュ。
現在は河出書房で文庫になっているようだけれど、残念ながら現代仮名遣いに改められてしまっているらしい。是非とも新潮の親本で、歴史的仮名遣いで漱石的世界がアナザーワールドへ変容するセンス・オブ・ワンダーを味わっていただきたい。
なお、新潮の単行本では挟み込みの別刷りとして、奥泉氏と柄谷行人の対談が収録されている。新潮文庫では確か解説代わりに巻末に収録されたと思うんだけれど、河出の文庫ではこれはどうなっているんだろう。
柄谷行人による次のような指摘は、村上春樹以後の日本文学における問題をかなり早い段階で暴露しているように思う。
アップトゥデイトな日本文学の状況には昏いのだけれど、最近は村上春樹の呪縛から逃れでた小説が珍しくなくなってきているような雰囲気を感じる、奥泉光の孤独な奮闘も、それに大きな役割を果たしたのではないだろうか。
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