月のしずくに綴られた美しさと切なさと。

わたしは日本の文化が好きだ。その中でも日本語の間接的な表現が好きだ。決して現代的とは言えない言葉と漢字の使い方から形成された表現に対して、美しさを感じる。

その感覚にはじめて触れたのは、RUI(柴咲コウ)さんの「月のしずく」を聞いたときだった。計算したら9歳の頃らしい。

月のしずくはこのフレーズで始まる。

言(こと)ノ葉(は)は 月のしずくの恋文(しらべ)
哀しみは 泡沫(うたたか)の夢幻

9歳の自分がこの歌詞に自分を重ねられるほどの経験をしていたとは思えないし、そもそも公立小学校で習うレベルの国語の能力しかなかったはずだ。それでもこのフレーズを聞いたときに、何とも言えない感動を覚えたことは記憶している。今でも思い出すのだから、多分当時はもっと衝撃的だったのだろう。

正直なところ、27歳になった今でもこの曲の歌詞を読んでも意味が分からない表現がある。それ以前にふり仮名なしでは読めない漢字すらある。この曲で歌われているような感情になる経験もしてきていないと思う。それでもやはり聞くたびに「きれいな歌詞だな」と思う。

「言葉」のことを「言ノ葉」と、"の"を敢えて"ノ"とするところも、「恋文」を「こいぶみ」ではなく「しらべ」と読むところも、「かなしみ」を「哀しみ」とするところも、どこか切なさを感じてしまう。「うたたか」に関してはわたしの知識では漢字から連想すらされなかったし、こんなに難しい漢字を使うのに「しずく」は「雫」でも「滴」でもなく平仮名だ。なんでだろう、なぜそうしたのだろう。

これはあくまでも歌だから、歌われてしまったらこれらの表現には気づかない。美しい声で歌われる曲として耳に入り、自身の恋愛などと重なったり重ならなかったりしたまま出ていってしまう。
でも歌詞を見ると制作者による想いや細やかな感情がそこに凝縮されている気がするのだ。そして何故この表現にしたのだろう、と受取側が色々な空想をする。わたしはそこまでの過程も含めて日本語表現に美しさがあると思っている。


日本人の表現は間接的で分かりにくいと言われる。遠回りした言い方で相手に感情を伝えて、その通りの意味で伝わらなくて、、ということはよくあることで、実際に自分自身もそれで困ったことも後悔したこともある。だけど、これってこういう意味じゃないだろうか、とあれこれ考える時間は嫌いではなかったりする。それが苦しみになることもあるとはいえ、良くも悪くも相手のことだけを考える時間は貴重な時間だ。

この間接的な表現から相手のことを考え、想いを巡らせる文化がいつから続いているのかは分からないが、和歌を通じて恋を成就させていた時代にはこの文化が既にあったはずだ。数日おきに手元にくる顔も住処も身分も定かではない誰かからの和歌から相手を想像し、想いを募らせる、そして自分もまた相手に和歌を返す。顔と居住地と学歴と仕事から恋愛を発展させることも一般的になりつつある現代には絶対に起こらないであろうことだが、このまどろっこしい感じもまた日本という気もする。


日本文化と言われるものはいくつかあって、基本的にわたしは時代に合わせて形は変えていくべき派だ。例えば判子なんて消えてしまえと思うし、書類の郵送なんて馬鹿げたことを、、と思う。
ただやっぱり言葉だけは、表現だけは、時代に合わせつつもどこかで残っていてほしいと思ってしまう。音楽を聞くのにCDがいらなくなっても歌詞カードは手元にほしいし、すっと頭に入ってこない表現だらけの小説も読み続けたい。

多分わたしがnoteなりブログなりで文字を書くことを続けたいと思っているのも、言葉に対して思い入れがあるからなのかもしれない。幼い頃に感じた言葉への美しさへの感動はずっとわたしの中に残るだろうし、我ながら素敵なアンテナを持っていたなと感心する。自分が書き、発する言葉に美しさがあるかというと別問題なのだが、できるだけ美しいと感じる言葉に触れ合い、空想し、溶け込んでいたい。


あいかりん



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