ノートPC >>> デスクトップPC

結論から言おう。ぼくは圧倒的にノートPCのほうがはかどる。

ぼくは複数のことを抱えるのがニガテである。あれの納期がいつまでで、そのあいだにこの仕事が降ってきて、そんなとき同時に、役所から書類が届き、とあるサービスの年会費の「初回コンビニ振り込み」を催促されて・・・。こうなるともう、ダメなのだ。何から手をつけたらよいかわからない。息が詰まる。心身がガチッッとこわばる。身動きがとれなくなる。結果、さまざまなものに遅延する。できる限りの対処は、「ほんとうにやりたいこと」は後にとっておいて、「小さい仕事たち」は後回しにして、「大きめのタスクで、やりたくない度が高いもの」を優先的に取り組むことになる。もちろん、後に仕事をたくさん控えながら、「やりたくない大タスク」に取り組むのは、決して気持ちいい時間ではない。結局ほとんどの時間はつまらなくストレスフルなものになる。

反対に、ひとつだけしかやるべきことがないときは、我ながらかなりの有能ぶりを発揮する。なによりそういう時間はとっても楽しいのである。

そんなぼくは、PCで作業する「やりかた」においても、「心身をひとつのことに注ぎこめる」ようにすべきである。最近、そう自覚した。たとえひとつのタスクしかないとしても、それをやるときに、「ひとつのなにか」と相対することができるように、やりかたの工夫をすべきなのである。

デスクトップPCはどうか。iMac27インチに、さらに2つの小さなディスプレイを上と手前に設置してある。トリプルディスプレイだ。たくさんの情報を一度に表示することができる。そう言えば聞こえは良いし、実際今までぼくは、そう「考えていた」からこそ、そのようにしてきたのだった。だが、実際にぼくの身が「感じて」いたことは、違ったのだ。ぼくの身からすれば「たくさんの情報が一度に目に飛び込んできてしまっ」ていたのだ。情報の濁流に、ダメージを受けていたということである。

さらにである。すばやく作業しようとすればするほど、視線の移動、手の移動(互いに分離したキーボード・マウス・トラックパッドのあいだで)がせわしなく起こる。こういう細かい動きが紛れ込むだけで、「プツンッ」となにかが切れ落ちる音が、思えば身の奥のほうで鳴っていた。「集中の糸」が途切れる音だ。ほかにも、「キーボードと画面が離れているだけ」で、正体不明の「不安定感」に苛まれる。集中の糸、プツンッ。ストレスメーター、上昇。

ノートPCはどうか?もう言わなくてもわかるだろう。上記したことが起こらない。キーボード・トラックパッド・ディスプレイが近くに集まっている。ディスプレイという「視覚的意識の強い向け先」とキーボード・トラックパッドという「行為的意識の強い向け先」が、ほぼおなじところに集まっている。結果、意識の向け先としては「ひとつ」になるのである。ここでいう意識とはもちろん、単に「頭だけ」でやるのではなく、身も心も両方によってはたらかせる意識のことである。

すると、キーボードショートカットをいろいろ駆使しながら、すかさずトラックパッドを操作できる。ディスプレイではその操作結果がせわしなく起こる。ディスプレイのそばでの指の感覚と動きとディスプレイ内容とを、「ひとつのできごと」としてまとまりよく体験できるのだ。このまとまりは、「こうやりたい」ということに即応的についてきてくれるし、さらに、「次にこうしたら?」と促してくれもする。よどみなく、なめらかに、仕事を流してゆけるのである。

だから圧倒的にノートPCのほうがよい。身がひとつのモノに「むかって」ゆける。がっぷり四つに、PCに組みあう。心身が、そして、心・身・PCが一体になってくれる。こうなってこそ、本来頭をはたらかせなければならない、クリエイティブな部分に集中することができるわけだ。

最近ようやく、それを自覚した。

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