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なぜ市民性を醸成していくのか〜「いる」ことですでに関わり合っている私たちだからこそ〜

市民性は私たちをケアし、癒し、エンパワーする。


「傘持ちますよ」
突然の大雨の中、ベビーカーを片手に大泣きする子どもを抱っこしながら
抱っこ紐を忘れたことを後悔しつつ、子どもだけは濡れないようにと傘の配置に試行錯誤しながらの帰り道。
声をかけてきたその女性の温かさに、片道40分の道のりを片手に子ども片手にベビーカーと傘、重い荷物を背負って、疲れ果てていた私の心が柔らかく緩み、緊張していた肩が緩み、浅くなっていた呼吸にきづき、深呼吸した。

誰もが、誰かの生きる暮らしに、環境に存在している。たとえ、違う国に暮らしていても、たとえ、一度も会ったことがなくても、たとえ、すれ違っただけだとしても。
今この瞬間、私の存在は、いろんな人に影響しているし、目に見えないまだみぬ人の存在も私に影響している。


子どもの生きるこの世界にいる私たちはすでに子どもと影響しあっている


「あの人が毎日声をかけてくれたから」
「誰にも声が届かなかった」
「やっと相談したのに、、、」
「あの時にかけてくれた声があったから」
「まるで私はここに存在していないみたい」


子どもの暮らすこの世界に生きている私たちは、子どもの暮らしに、子どもの今に、子どもの未来に影響している。
何かをすることだけでない、何かをしないこともまたその子に影響していて、存在しているということはそういうことなんだと思う。
耳を傾けないこと、まるでいないかのように扱うこと、すれ違った時に気になった違和感を放置すること。
耳を傾けること、関心を持つこと、尊厳ある一人の人としてまなざすこと。

存在していることで、すでに関わり合っているからこそ


子どもは、さまざまなことを学び血肉としながら生きている。
遊びから学び、日常の中で学び、そしてメディアから、周囲の大人から、すれ違った人から、いろんなところから学んでいる。
そしてその子どもたちの日常には、子どもたちが望む望まないにかかわらず、私たち大人の営みが否応なしに影響しているし、反映されている。
子どもたちが使っているもの、遊ぶ場、学ぶ場、暮らしている物理的な環境、子どもたちの触れるニュース、子どもたちがすれ違う人、目にしたり耳にするさまざまなこと。

「関わっていない」なんてことは全くないくらい、
私たちはすでに子どもたちの暮らしに関わっていて、
そしてその影響をこどもたちが受けている。
だから、私たちが、子どもと共にあるとはどういうことなのか、子どもも自分も大切にされるとはどういうことかを問い続け、子どものまなざす世界を見つめようとし、受け取り、学び続けながら働きかけ直していかないと、無自覚に子どものまなざす世界に痛みや綻びをたくさん生んでいるかもしれない。

一方で、すでにここにいることが影響をし合っているとしたら、
私たちも子どもたちから影響を受けていることを忘れずに、一人一人がまなざす世界を大切にしながら紡いだ社会は、子どもも私も、私たち誰もが一人の尊厳ある人としていられる社会かもしれない。

存在していることが、すでにお互いに影響しあっているということは、可能性もあちこちに開かれているということでもある。
その可能性の源である市民性を信じているからこそ、私たちは市民性が醸成される社会を育んでいる。

市民性があるから、利害を超えて一人の人としてまなざし合い、出会い直し、心を交わせるのかもしれない。
異なるまなざし持つそれぞれが、距離を超えて、時間を超えて、同じこの世界に生きる様々な人がいることを受け取り、思い込みのメガネを少し脇に置いて起こっていることを丁寧に知ろうとし、一人の人と人として働きかけあうとき、そこに市民性が立ち現れるのではないかと思う。

誰もの手元から市民性が紡がれる、そんな明日を目指して、
明日まで寄付キャンペーンを行っています。
あと41万円、是非力を貸してください。

子どもも自分も、あの人も、私たち誰もが尊厳あるひとりの人として大切にされるような、誰もがその人として存在していていいと思える社会を共に育んでいただけたら嬉しいです。
寄付キャンペーンのページはこちらから。













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