課題の分離の例外

アドラー心理学で有名な「課題の分離」という考え方があります。
簡単に説明すると、自分の課題と相手の課題を区分して他人の問題に干渉せずに本人の意思を尊重しましょうというような考え方です。

一見ドライに見える考え方ですよね。
しかし相手を自分の思い通りにしようとする支配的なエネルギーを抑える意味合いもありますし、相手の自立心を促すような意味合いもあるのでこれは非常に大切ではないでしょうか。
これができていない事によるトラブルというのは本当に多いと思うので、僕はこの考え方を意識しながら生きています。

しかしこの課題の分離ですが、困っている人がいてもそれは相手の課題だから自分は一切関わらないというような都合の良い解釈をする人がいるのを危惧しています。
極端な例で言うのであれば、自殺をしようとしている人がいたとしてそれは本人の意思だから無理には止められないという事で放置するというような考え方でしょうか。
しかし本当の本当に相手の問題に対して一切干渉せずにそれが正義であると解釈するのは少々危険すぎると思うのです。

自殺しそうな人に対しての「死にたいのなら止めないよ、でも私はあなたに死なれたらすごく悲しい」というような定番のセリフを聞いた事がありませんか。
このセリフはある種課題の分離をして相手の意思を尊重しつつ自分の個人的な感情を伝える事で遠回しに相手の自殺を思いとどまらせようとしているようなニュアンスなのかもしれません。
正解かどうかは分かりませんが、そのような原理のようには思えてきます。

このように例外的に課題の分離を守らない事を認め始めると、結局のところどこまで課題の分離を適応して良いのか悩む事が多くなるでしょう。
最近僕自身が直面している大きな悩みがまさにそれです。
特に課題の分離は自分に確信がある時こそ悩ましい選択を強いられるように思うのです。

たとえば大切な友達や家族がカルト宗教にハマりそうになっていたとしたらどうでしょうか。
自分とは無関係の思い入れのない人であれば無理に止めない人が多いかもしれませんが、大切な友達や家族であればそうもいかないのではないでしょうか。
それはカルト宗教にハマったら相手が不幸になるという確信があるからでしょう。

このような時に相手を全力で止める事は相手から嫌われて最悪の場合は絶縁されるリスクを伴います。
しかしそれも覚悟の上で全力で止めるという行為は果たして課題の分離ができていない単なる偽善に該当するのでしょうか。
僕にはとてもそうは思えないのです。

このような場合には絶対的な真理というものは存在しないのかもしれません。
しかし相手が確実に不幸になると気づいてしまったからには相手に何をするのか、もしくは何もしないのかも含めて選択を迫られる事になるでしょう。

トロッコ問題という有名な話があります。
制御不能のトロッコがあってその先に5人いてこのままだと轢かれて確実に死ぬという状態で自分の目の前に分岐器があり、それを操作する事で5人は助かるが、その代わりに別の1人が轢かれて死んでしまう場合に分岐器を操作するかどうかというような思考問題です。
数で考えれば分岐器を操作して死人を減らした方が良いが、それはつまりわざわざ自分から特定の人間1人を殺す選択を強いられるという事になります。

この思考問題についてどちらが正しいかを考える事は今回の記事とは無関係ではあるのですが、このトロッコ問題は何もしないというのも時に選択であり選択する事からは逃げられない場合があるという事を物語る良い例ではないでしょうか。
自分の選択による結果が目の前で人が死ぬという形で露骨に可視化されてしまう状況というのはかなりシビアなものです。

また闘病の問題も非常に難しいです。
たとえば、病気などによって生きている事がとても辛く苦しい患者が苦痛を伴う積極的な治療を拒むケースなどがあります。
そこで医師の目から見て苦痛を伴う治療をした場合に後に本人が元気になって治療をして良かったと思う事がある程度予測できていたとしても、本人の意思がなければ治療は継続できません。
このような状況には少しもどかしさを感じてしまいます。

課題の分離に限らず物事にはある程度の法則や守るべきルールのようなものがあるとは思いますが、時に例外に該当する事案があってそういう時には自分の判断で選択して責任を負うというような自立心が必要になります。 
難しい判断というのは何を選んでも犠牲を伴うという時でしょう。
つまり自分の選択で犠牲が生じるという事から逃げられない時、これが1番悩ましいものです。
このような避けられない犠牲というのは人間に与えられた何らかのカルマのようなものなのかもしれません。

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