不幸を認める事の価値

現在、過去最高に字数の多い僕の実体験の記事を書いているのですがなかなか書き終わりません。
というのも、書いていると様々な気づきが得られる為にどんどん話が広がりそうになるからです。
今回はそのまだ未完成な記事を書きながら僕が感じた事をここに書いてみようかなと思います。

他の記事でよく書いている事ですが、僕は偽善者がとても嫌いです。
なぜ嫌いかと言うと予後が悪いからです。
偽善的な生き方というのは自分自身や自分の行動を善だと思い込んで陶酔するというような生き方です。
それはつまり自分に嘘をつくという事に繋がってきます。
僕はこのような生き方は方向性を誤った生き方だと解釈しています。

このような生き方を長年続けていると自分自身のついた嘘を本当だと心の底から思い込むようになります。
つまり本心というものが無意識化に抑圧されて、自分が善だと決め込んだ固着化した形式で自分自身を縛り付けるような状態になります。
彼らは鏡を見てももはや自分の姿が分からなくなっています。
自分の見たいように物事を捉えて自分の見たいように自分を捉えるからです。

僕はここでハッキリと言いたい事があります。
このような生き方は絶対的に不幸であるという事です。
人の生き方は自由です。
そして人によって何が幸せで何が不幸かは違います。
それも踏まえた上で偽善的な生き方は絶対的に不幸であると僕は断言したいと思います。
偽善者なんてハッキリ言って気持ち悪いしクズです。

しかしなぜあえて傷つきそうなくらいにキツい言葉を選んで僕が偽善者を否定するのかと言うと、僕が明確に偽善者たちを傷つけたいからです。
偽善的な生き方にハマる人が確実に不幸になるという事、そしてそのような生き方が蔓延する事が社会という共同体を腐らせて大勢を不幸にするという事、これが僕の持論です。
これをぶっ壊すには明確に彼らに傷ついてもらう必要があるとそう考えています。

もしかしたらこのような僕の言葉を聞いても全く傷つかない偽善者もいるかもしれません。
それはとても悔しい事ではありますが、仕方のない事です。
ですが、もし僕の言葉に傷つく人がいるのであればそれは明確に僕の目論見通りと言えます。
僕の言葉に傷つく人がもしいたとして、その人たちに聞きたい事があります。
何故傷ついたのですか?
もしくは何故不快に思ったのか、何故腹立たしく思ったのかを考えてみてください。

それはきっと図星だからではないでしょうか。
というのもいくら偽善的な生き方をしていても無意識化には必ず自分の本心というものが生き残っているからです。
その本心というものが偽善であるという事実に気がついているからこそ、僕の発言に傷つくのではないでしょうか。
的外れな発言だと思うのであれば、きっと傷つかないはずなのです。
その時点で「あなたは不幸な人間である」と僕は思います。

他人の人生を不幸だと言い放つ事、これは一般論で考えてみると良くない事なのかもしれません。
しかし僕は不幸であるという事を自覚してそれを受け入れるという事が不幸な人にとって何よりも大切な事だと考えています。
自分は不幸じゃないと思い込もうとする人というのはとても多いです。
不幸自慢をする事が良い事とは思いませんが、不幸なら素直に不幸と認める潔さというのが僕はとても大切なんじゃないかと思うのです。

逆に不幸を認めないとどうなるかと言うと、幸せに見えるように振る舞うという事をします。
これこそが偽善者の原動力の正体ではないでしょうか。
これはつまり中身がないのに外見だけを良くするというような生き方になります。
外見を良くするという事によって変わるのはあくまでも周りだけです。
仮に周りによく見られる事で一時的な満足感が生まれたとしても自分自身の内面的な幸せというのは何も得られないのです。

人間が不幸から脱する為には結局のところ不幸を不幸として受け入れる事しかないのです。
よく同じ状況でもそれを幸せと捉えるか不幸と捉えるかは人によって違い、捉え方次第であるという考え方がありますね。
それは紛れもない事実ですが、このような捉え方の訓練なども自分が不幸であるとしっかり認識して受容してからでなければまず意味がないでしょう。
捉え方の訓練というのは一つの物事に対しての捉え方を複数持つスキルというものが必要になります。
不幸を受け入れないというのはつまり不幸であってはならないという固定観念に縛られている事になるので、「一つの物事に対しての捉え方を複数持つ」の逆に向かっている事になります。

その為、不幸な人が不幸でなくなる為に1番にするべき事は自分が不幸である事を認める事だと僕は考えています。
そこには痛みを伴います。
不幸に気づくというのは傷つくという事に他なりません。
そういう意味で僕は不幸を受け入れない偽善者の人たちを見ていると思い切り心を傷つけたくなってしまうのです。

僕は空気が読めない人間ではありません。
読もうと思えばそれなりに空気が読める人間だと自負しています。
でも僕は必要があれば空気は読みません。
相手が望んでいる言葉だけをただかけ続ける事が僕は正義だとは思いません。
そうやってお互いに顔色をうかがいながら迎合して傷つかないように怯えながら生きる人生なんてハッキリ言ってクソです。
相手が不快に思う事でも伝えなければならない言葉というのも明確にあると僕は考えています。

どうかこのnoteで傷つくべき人が傷ついて生き方の誤りに気がついてくれますように。

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